「甲状腺がんで、体と人生が傷ついた私たちは、社会から透明にされたまま、日々を生きています」 311子ども甲状腺がん訴訟8人目の原告が陳述

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福島第一原発事故後の健康調査で子どもたちに見つかった甲状腺がん。「大丈夫」との嘘を信じた私……。

東京電力福島第一原発事故の影響で甲状腺がんにかかったとして、事故当時、福島県内に住んでいた10代〜20代の男女8人が東京電力に損害賠償を求めています。東京地方裁判所(島崎邦彦裁判長)で9月17日にあった第15回口頭弁論を傍聴しました。この日は、6月3日に新たに提訴し、今回から併合審理となった8人目の原告の意見陳述がありました。

311子ども甲状腺がん訴訟 東京電力福島第一原発事故による放射線被ばくが原因で甲状腺がんを発症したとして、事故当時6〜16歳だった福島県民が、東京電力に損害賠償を求めた。2022年に東京地裁に提訴し、現在も係争中。原告は、通常100万人に1〜2人程度の小児甲状腺がんが、原発事故後、福島県で400人近く見つかっているのは被ばくの影響と主張している。

357人が「甲状腺がん」「がん疑い」

福島県は原発事故後の2023年10月から、事故当時18歳以下の子どもたちを対象に、2〜5年置きに県民健康調査を実施しています。約30万人が甲状腺検査を受け、今年3月末までに357人が「甲状腺がん」または「がん疑い」の確定診断を受けました。https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/43-7.html

原告らもこの検査で「甲状腺がん」が見つかり、8人全員が手術を受けています。3人が再発を経験し、リンパ節や肺への転移がある人もいます。

裁判では原告側が、甲状腺がんの多発は福島第一原発事故後の内部被曝によるものと主張。一方、被告の東京電力側は、多くの子どもを網羅的に検査した結果、症状が顕在化せず悪化もしない「潜在がん」を拾ってしまったという「過剰診断」説に立っています。原告らのがんは時間の経過とともに肥大化し、切除を余儀なくされており、「潜在がん」でないことは明白です。

井戸謙一弁護士=東京地裁

原告側代理人の井戸謙一弁護士によると、この日の開廷前の進行協議では、争点整理があり、因果関係を疫学的に証明したいという原告に対し、裁判所側から被曝線量も含め総合的に考慮したいという意向が示されました。今後の最大の争点は被曝と甲状腺がん発生の間に因果関係があるかどうかで、来年以降、医師や研究者らの証人尋問が予定されています。

12歳で原発事故、18歳で甲状腺がんを手術

8人目の原告、瞳さん(仮名)は福島県いわき市出身の女性。原発事故当時は小学校6年生でした。高校2年の時に県民健康調査で甲状腺がんが見つかり、直径1cmを超えていたため、18歳で手術を行いました。

法廷での意見陳述で瞳さんは次のように話しました。

沼の中をあるいているような震災後の日々
震災が起きた時、私は小学6年生でした。ランドセルを玄関に放り投げて学校に行き、ブランコに乗っていた時に大きな揺れがきました。
原発が爆発したことはよく覚えていません。ただ、将来自分ががんになって、病院へ行く想像をした一瞬は覚えています。いつかがんになって死ぬかもしれない。12歳で、そういうことを、なんとなく受け入れていました。
原発事故後の世の中の急な変化で、感情が麻痺し始めました。目の前が薄く暗くなり、沼の中を歩いているような苦痛な日々でした。でも毎日学校があって、部活に行き、友達と家に帰る。その繰り返しで、ニュースで語られる「フクシマ」と、自分の生活はかけ離れていました。外国では、福島には人は住めないと言われているらしいけれど、私の目の前には震災すら日常になった日々がありました。
高校2年生のときに甲状腺がんが見つかって、手術することになりました。どうしてがんになったのか、医師に聞くと、「この大きさになるには10年以上かかるから、原発事故の前にできたものだ」と説明されました。私は、「原発事故とは関係ない」というその言葉を素直に受け入れました。医師は私を見て「みんなあなたのようだったらいいのに」と言いました。その当時「甲状腺がん」という言葉は原発事故と直結していて、この診断を聞いて普通でいられる人はほぼいないのだと感じました。
検査も手術も、異様に軽い雰囲気で進められて、「見つかってラッキーだったね。せっかくだし取ってしまおう。取ってしまえば大丈夫」。そんなノリでした。

大丈夫と感情を麻痺させたツケ
手術を終え、大学に進学すると、私は激しい精神症状に苦しめられるようになりました。幻聴、幻覚、錯乱状態、発作。身がちぎれそうな、激しい苦痛が9年続きました。その時はなぜ、そのような症状が出るのか、わかっていませんでした。でも、大学卒業後に受診した精神科で、震災のPTSD(心的外傷後ストレス障害)と言われました。
震災や原発事故があっても大丈夫だった。がんになっても大丈夫だった。そう感情を麻痺させてきたツケを払うように、心も体も壊れていきました。裁判のためにカルテの開示請求をすると、1回目の検査の時はがんどころか結節もありませんでした。2回目の検査までのわずか2年で1cmのがんができていたのです。しかもリンパ節転移や静脈侵襲がありました。「事故前からあった」という医師の発言は嘘でした。この事実を知り、私の精神状態は悪化し、提訴後、会社を辞めました。
私は9年前、手術の前日の夜、暗い部屋で1人、途方もない不安や恐怖を抱えていました。その時、私の頭に浮かんだのは「武器になる」という言葉でした。

たぐり寄せてつかんだ怒り
私は当時、「甲状腺がんの子ども」を反原発運動に利用する大人に怒っていました。私は、大人たちの都合のいい「かわいそうな子ども」にはならない。何があっても幸せでいよう。そう思いました。不安と恐怖と混乱で溺れてしまいそうな中、たぐり寄せてつかんだものは、怒りです。尊厳を冒された時、怒りが湧くのだと知りました。それをかすがいに、甲状腺がんへの不安を乗り越えた高校生の時の私とともに、今、私はここに立っています。
大人に利用されたくないと強く願っていた私は、気づくと国や東電に都合のいい存在になっていました。胃がねじきれそうなほど、悔しいです。私が受けてきたものは構造的暴力です。命より、国や企業の都合を優先する中で、私たちの存在はなかったことにされていると気づきました。私たちは論争の材料でも、統計上の数字でもありません。甲状腺がんで体と人生が傷ついた私たちは、社会から透明にされたまま、日々を生きています。
私にとって福島で育つということは、国や社会は守ってくれないと肌で感じることでした。充分すぎるほど諦め、失望しました。でも私は抵抗しようと思います。
命と人権を守る立場に立った、どうか独立した正当な判決をお願いします。

医師は嘘のない説明を

閉廷後の記者会見で瞳さんは手術前の医師とのやりとりについて聞かれ、次のように話しました。

「どうしてがんになったのですか、と聞くと、次回の診察でお答えしますと言われました。次の診察で『(腫瘍が)この大きさになるには10年以上かかるから、原発事故の前からあったものが検査で見つかった』と言い、『チェルノブイリより福島の子どもの方が被曝量が小さい』と付け加えられました。腫瘍は10㎜以上だと手術適用ですが、私は10.4㎜。せっかく見つかったんだから取ってしまおうと手術を勧められました。手術の後に『取れたよー』と腫瘍を見せてくれるぐらい軽いノリでした」

閉廷後、記者会見にのぞんだ瞳さん=東京地裁

瞳さんは大学の授業で水俣病について学び、何年もかけて因果関係がわかった経緯を知り、原発事故と甲状腺がんの因果関係を調べ始めたそうです。311子ども甲状腺がん訴訟のことは知っていましたが、自分の精神状態が悪く、原告に加わるまでに時間がかかりました。訴状をつくる段階でカルテ開示を申請したところ、1度目の検査では結節も腫瘍もなく、原発事故以前からあったがんだという医師の説明は真実ではなかったとわかりました。大きなショックを受け精神状態が悪化したといいます。

「原発事故とは関係ないと言われて納得する人、自分を納得させる人も少なくない。当事者が、嘘のない倫理にかなった説明を当たり前に受けられるようになってほしい」と瞳さん。

甲状腺がんになって人生はどう変わったのか?

瞳さんは「マイナス面では精神疾患を抱え、社会から一度ドロップアウトしてしまったこと。貧困に陥る恐怖もありました。一方で、日本社会全体が落ち込み、福島に限らず若い人が人生をあきらめつつある中、私には抵抗するトピックがあるということ。それは良かったことだと思います」と話しました。

次回の口頭弁論は12月17日に予定されています。