
北海道道北にある幌加内町(ほろかないちょう)の朱鞠内(しゅまりない)。今も使用されている朱鞠内共同墓地の裏手には、熊笹のやぶが広がっている。この笹やぶの下に埋まっている遺骨の発掘が始まったのは、1980年5月25日、雪解けの時期だった。熊笹は人の背丈を超えるため、この地域の豪雪に押し倒されている雪解けの時期が選ばれた。20センチほど掘ると雪解けの水が出てくるので、その冷たい水を汲みあげながらの作業だった。最初に見つかったのは頭蓋骨。30数年ぶりに地上に現れた。この日午前中に6体の遺骨が発掘された。
これらの遺骨はなぜ共同墓地ではなく、裏手の笹やぶの地中に葬られていたのか。この遺骨はどんな人たちなのか。誰が、どんな思いで遺骨発掘を始めたのか……。
次々に疑問が湧く。
去る7月、朱鞠内に昨年秋オープンした「笹の墓標強制労働博物館」を訪ねた(図1参照)。同館は矢嶋宰(つかさ)館長が一人で管理・運営している。博物館に2泊3日滞在し、ミュージアムの日常を覗かせてもらった。

朱鞠内には、第2次世界大戦中、ダム工事、それに伴う鉄道工事のため、日本人をはじめ、当時、日本が植民地支配をしていた朝鮮半島から朝鮮人も3000人近く集められた1。「タコ部屋労働」と呼ばれる監禁・拘束を伴う過酷な肉体労働が強いられた。
極寒の地に造られた雨竜第一ダム

2025年7月13日、撮影:岡本有佳

提供:笹の墓標強制労働博物館
まず向かったのは、ミュージアムから1kmほど、雨竜(うりゅう)第一ダムの第一堰堤(えんてい)(図1青い部分)。高さ45m、長さ216mのコンクリートの堤防である(写真1、2)。この堤防で堰きとめたことで誕生した日本最大の人造湖・朱鞠内湖が広がる。広さは23.73平方km、東京ドーム約507個分にあたる。
「1938~1943年、雨竜第一ダム工事、第二ダム工事があり、日本人、朝鮮人が動員され、劣悪な環境で労働を強いられました。そもそもこの辺りは北海道帝国大学(現在の北海道大学)の演習場だったんです。そこに目をつけ買収したのが、三井グループの王子製紙(現:王子ホールディングス)でした。木を伐採した後、広大で平らな土地に、近くを流れるカマブトベツ川を堰き止めて湖を作れば発電できる、それを目論んでダムを作ることにしたのです」。
当時、王子製紙は本業の製紙業のほかに電力事業も手掛けていた。1928年、雨竜電力株式会社という子会社を作った。ダム工事は飛島(とびしま)組(現在の飛島建設)が元請けとなり、さまざまな建設会社が下請けとなった。雨竜電力株式会社は1942年に「日本発送電株式会社」(国策によるカルテル)に吸収され、1951年カルテルの終焉により、北海道電力株式会社が事業を引き継ぎ現在に至っている。

ダム建設のエリアは山深い上に、冬季は豪雪でマイナス40度にもなる極寒の地だった。そのため資材搬入用の鉄道工事が必要で、1935年、名寄(なよろ)と朱鞠内を繋ぐ名雨(めいう)線(後の深名線)の工事が始まった(41年まで)。鉄道建設からダムが完成するまで、一日あたり最大で7000人、のべ600万人が労働したと言われている。
「いろんな証言がありますが、写真3のように堰堤にセメントを流し込む作業の過程でたびたび人が落ちる事故がありました。しかし落ちた人は助けずに、上からセメントを流して埋めてしまったと言います。それを『人柱』と言い、人柱が入ると建物が丈夫になるという迷信まであったと聞いています。どのくらい亡くなったのか正確にはわかりません。専門家によると、死体が腐るとガスが発生して建物の強度が高まらずむしろ弱くなるそうです」と矢嶋さんは説明する。
「朱鞠内の住民は雪解けの時期に沢で死者が横たわっているのを見つけたり、雨竜川を流れていく死者を見たりしたと言います。死亡した労働者の多くはダム工事現場近くの『光顕寺』(こうけんじ)に運び込まれ、位牌だけを残して朱鞠内共同墓地のはずれに埋葬されました。戦後、そこは熊笹の生い茂るやぶになり、死者は遺族に知らされることもないまま、笹やぶの地中に埋められたままでした」。
あってもないような殉職者慰霊塔

第一堰堤の脇に、10mを超える塔がそびえ立ち、「殉職者慰霊塔」と刻まれている(写真4)。その横に「雨竜電力株式会社社長足立正謹書」とある。下の方には「朱鞠内湖に愛をこめて」と刻まれている。
「この塔はダム工事中に使っていたアーチの一部なんですよ。でも、強制労働があったこと、朝鮮人がいたこと、タコ部屋労働だったこと、三井財閥傘下の王子製紙が施工主だったことも書いていない。あってないような慰霊塔なんです」と矢嶋さんは話す。
ここで3人の親子連れに出会った。なんでも息子さんが中国の両親を連れて車で道内をまわっているという。雨竜ダム工事で朝鮮人の強制労働があったこともネットで調べて知っており、「笹の墓標強制労働博物館」に寄ろうと思っていたそうだ。そこで一緒に遺骨が発掘された共同墓地の裏手に寄ってから、ミュージアムに行くことになった。
願いの像 犠牲の事実を知らせよう

上記の殉職者慰霊塔が犠牲者について何も書かれていないため、犠牲の事実を広く知らせようと、殿平さんたちは新たな追悼碑を建てることにした。建立委員会を作り、資金を募り、札幌在住の彫刻家・本田明二さんに依頼した。本田さんががんに罹り、同じく彫刻家の娘の泉さんが完成させた。「命の尊さに目覚め民族の和解と友好を願う像」(略称「願いの像」)と命名(写真5)。殉職者慰霊塔の近くに設置しようと、雨竜ダムの所有者である北海道電力と幌加内町に折衝するも折り合いがつかず、檀家の人の所有地を借りて1991年、除幕式をした。
共同墓地の裏手の笹やぶ

ミュージアムから約1km、道路脇の山道を登っていくと、松林を抜け視界が広がったところに共同墓地があった。たくさんの墓標が立っていて現在も使用されている。共同墓地のはずれに熊笹の笹やぶが見える。その辺りにダム工事で亡くなった労働者たちの遺骨が埋まっていた。(図1黄緑部分)
ここで遺骨発掘に至るまでを説明しよう。
それは1976年に結成された「空知(そらち)の民衆史を語る会」(のちに「空知民衆史講座」)2のメンバーである僧侶、殿平善彦さんらによる朱鞠内訪問から始まった。
学生生活を京都で送った殿平さんは30代で故郷の北海道・深川市(幌加内町の隣)で住職をする父親の元に戻った。ある日、友人の僧侶と朱鞠内へドライブに出かけた。朱鞠内湖、雨竜ダムなどを見た帰り道、友人から引き取り手のない位牌があるお寺に寄りたいと言われ、真宗大谷派寺院「光顕寺」に行った。そこで檀家の人たちから「長年気になっていた」と見せられた位牌は70基以上。「俗名 盛岡寅吉1942年7月29日 享年25歳」「俗名 金顕権(キム・ヒョンクォン)1940年8月13日 享年34歳」……死亡年齢のほとんどが20〜40代の男性で、日中戦争・アジア太平洋戦争中に亡くなっていた。
なぜこんなに短期間に日本と朝鮮の若い人たちが死んでいったのか。殿平さんたちはこの時期に行われたダム工事の犠牲者ではないかと調べ始めた。仲間からのアドバイスで地元の役場に残されている「埋火葬認許証」(まいかそうにんきょしょう)から、ダム・鉄道工事に携わった死者が判別できた。この時点で判明した犠牲者は110人。内訳は日本人95人、朝鮮半島出身者15人だった。
「認許証」には多くが「埋葬」と書かれていた。どこに埋葬されたのか。現場で働いていた檀家の証言により、案内されたのが共同墓地のはずれにある熊笹の笹やぶだった。笹やぶの中にところどころにへこんだ穴があり、そこに「死人が入っている」と教えられた。工事中に亡くなった人は次々と埋められた。その肉体が朽ちて土中に空間ができることで、埋葬の場所は窪んでしまうそうだ。
ダム工事の歴史と死者を考える学習会や追悼会を実施する過程で出会った強制労働の体験をもつ在日朝鮮人の蔡晩鎮(チェ・マンジン)さんの強い要望で、殿平さんたちは遺族に手紙を出すことになった。
殿平さんたちは檀家の協力を得て1980年にいよいよ遺骨発掘がスタートした。最初に遺骨発掘をする日は道内各地から101人が集まった。以降、1983年まで続けられ、16体の遺骨が発掘された。
その後、殿平さんたちは遺族への遺骨の返還に努める。
この活動はのちに東アジア共同ワークショップ3として若い世代に引き継がれ、北海道各地で強制労働させられた人たちの遺骨を発掘した(図2)。


昨秋オープンした笹の墓標強制労働博物館
1992年、檀家の減少と建物の老朽化などにより「光顕寺」を取り壊すという連絡が入った。それはあまりにも惜しいと思った殿平さんらは考え抜いて管理を引き受けた。必要な修理をし、本堂は犠牲者の遺骨発掘に関連した資料を展示した「笹の墓標展示館」になった。「笹の墓標」とは、生い茂る熊笹が墓標のように見えたところから名づけられた。初代館長はダム工事体験者の朴南七(パク・ナムチル)さんに決まった。
「笹の墓標展示館」は、東アジアの若者たちが学び、語り、歌い、踊る場所になった。
しかし、2020年冬、展示館は雪の重みに耐えられず倒壊した。再建のため、全国各地で巡回展をしながら資金集めをし、日韓をはじめ世界中の市民からの支援によって2024年9月28日、開館したのが笹の墓標強制労働博物館だ。そして新館長としてバトンを受け取ったのが矢嶋宰さん(当時53歳)だったのである。
矢嶋さんは大学時代から日本の加害の歴史に関心を持つようになり、卒業後、朝日新聞の契約フォトグラファーになった。2000年ソウルで開催した東アジア共同ワークショップ、翌年の遺骨発掘ワークショップにも参加した。それがきっかけで韓国に渡り、2003年から日本軍「慰安婦」被害女性たちが暮らすナヌムの家、併設の歴史資料館で研究員として働くようになった。その後、ドイツへ。ドイツでも加害の歴史に向き合う活動に従事した。再び韓国に戻り活動していた矢嶋さんに殿平さんから新しい博物館の館長になって欲しいと伝えられた。

さて、現在に戻ろう。
ダム近くで一緒になった親子連れ3人とミュージアムに着いた(写真7)。博物館内に入ると、少し暗めに設定された照明の中に、鉄道・ダム建設と強制労働者の歴史、遺骨発掘とその返還プロジェクトや国際交流プログラムが体系的に展示・紹介されている。当時の貴重な写真も多い。奥にはガラスケースに入った位牌が並んでいる。
さらに「アイヌモシリと北海道」というパネルも設置されている。矢嶋さんは、「ここ北海道はもとはアイヌが住む『アイヌモシリ』。明治政府がこの地を支配していった過程ではアイヌの人々に対するあからさまな差別が含まれていました。それが、のちに植民地として手に入れた朝鮮などでも同様の政策がとられました。今もアイヌの人々に先住権を認めないことと、強制労働の歴史にふたをすることの原因は根底でつながっているのではないでしょうか」と指摘する(写真8)。
ミュージアムのある一日
記者は博物館に二泊、宿泊させてもらった。ここからは翌日の一日の動きを時系列で紹介する。
9:30 開館前だが、ミュージアム前にオートバイが止まり、中年男性が一人来館した。千葉から来たという。
10:10 韓国人男性ノ・ドギルさん(41歳)が車で来館。ソウルから来て、北海道でレンタカーを借りて回っているという。ネットで調べての訪問だ。
11:50 幼馴染の女性2人連れが来訪(写真9)。女性の一人は、父親が芦別の炭鉱で働いていたという。朝鮮人を管理していていたおじさんが、手で殴っていたら手が痛くなり、ベルトに換えて殴った時「アイゴー、アイゴー」と泣いていたと話したことが、今も自分の耳に残っているという。それでネットで調べてここに来たそうだ。女性は「知りたいじゃないですか、本当のこと」と言った。
15:00 広島から来た牧師の林尚志さんと旭川市に住む女性の2人連れが来訪。
15:15 男性が一人来訪。

来館者が来るたびに矢嶋館長はパネルの説明をし、希望すれば朱鞠内スタディツアーも無料で引き受ける。これはなかなか大変である。
17:00閉館。その後、矢嶋さんに話を聞いた。開館してから1年弱。印象的だった来館者はいるか尋ねると、すぐに「いますね」と返答があった。
「3週間前くらい前に、75歳の女性が一人訪ねてきたんです。その時は博物館を見学して帰って行きました。その1週間後、またその人が来ました。聞けば、『最初は偶然入ったが、その後、気になってしかたなかった』と。2ヶ月かけて北海道の道の駅まわりをしていると言うんです」。
実はその時、「ジーサンズ」(博物館の敷地内を管理してくれる高齢の男性たちを矢嶋さんがこう名づけた)の草刈りワークショップ中だった。
「人手が足りなかったので思い切って、2〜3日間、食事を作るボランティアはできますか?と彼女に尋ねたんです。そしたら『できます!』と二つ返事で引き受けてくれ、博物館に宿泊しながら私たちの食事を作ってくれました。別れの時には彼女は泣きながら『今回の旅で朱鞠内が一番良かった』と言ってくれました。こんな縁がありました」と話してくれた。
博物館の管理・運営をたった一人でするのは容易いことではないが、矢嶋さんにはさらにやりたいことがある。
「まずは安定した運営を確立すること。次に、分散している資料(文書、写真など)をまとめて整理して、アーカイブ化したい。さらに、豪雪地帯の朱鞠内では積雪2mにもおよび、来館者がぐっと減る。そこで12〜3月には冬季ワークショップを開催しています。ぜひ来て雪下ろしも手伝ってくレたら嬉しいです!」
同館は入場無料。館長とめぐる朱鞠内スタディツアーも無料で提供している。こうした博物館の管理・運営を維持するため、サポーターを募っている。

さらに知りたい人へ
『和解と平和の森――北海道・朱鞠内に朝鮮人強制労働の歴史を刻む』
殿平善彦著 高文研 2025年8月刊
殿平善彦さんが位牌に出会ってから30年あまりに及ぶ北海道・朱鞠内の朝鮮人強制労働の歴史を記憶・継承する活動の記録。遺骨発掘から遺族への返還、そして記憶の継承まで続く歴史がわかりやすく綴られている。それは〈人と人の出会い〉によって実現したものであり、まさに民衆の視点による歴史の掘り起こしの足跡だ。
- 中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」には、雨竜ダム工事総雇数2967人(1942年6月)の記録がある。
↩︎ - 1970年代、道東の北見市を中心に、北海道の近代を民衆の視点から反省的に見直そうという歴史運動「民衆史掘りおこし運動」が起こる。これは道内各地の教師や宗教者、市民に広がっていった。1976年、「空知の民衆史を語る会」(のちに「空知民衆史講座」)の結成に繋がった。
↩︎ - 1989年一人の韓国人青年と殿平さんの出会いがきっかけで、1997年、韓国人・在日朝鮮人・日本人が遺骨発掘する日韓共同ワークショップが光顕寺の隣に建てられた農業用ビニールハウスで開催された。その後自主的に開催は続き、2001年、「東アジア共同ワークショップ」と名称変更。台湾からの参加者や高校生対象のワークショップも始まり、現在も続いている。
↩︎
*次回は、「東アジア共同ワークショップ」に初参加した羽話さんの笹の墓標強制労働博物館紀行②に続く。
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