太平洋の真ん中に通りすがり、立ちつくす―キノコ雲の下からみるマーシャル諸島②

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トップ写真:太陽に照らされるマジュロ環礁のラグーン(3月2日、野口撮影/共同通信)

 日本だけでなく、世界中でうみだされている「Hibakusha」。米国が核実験を繰り返したマーシャル諸島も、甚大な被害を受けた国の1つです。本連載では、現地で暮らす人々とのふれあいを通して、「キノコ雲の下から」核被害をみつめます。

 第2回では、共同通信記者の野口英里子さんが2024年2~3月に同国を訪れ、現地の人々と出会い、考えたことを伝えていただきます。彼女にとって滞在した約20日間は、「大きな戸惑いと葛藤にさいなまれた」期間でした。

(写真はすべて2024年3月撮影)

野口英里子
 共同通信社記者。2017年入社、19年4月から23年6月まで広島支局で被爆者や核兵器廃絶を目指す市民、研究者らを取材。22年6月にオーストリアの首都ウィーンで開かれた核兵器禁止条約(TPNW)第1回締約国会議の取材班にも加わった。現在は福岡支社編集部で警察を担当。

 2024年2月25日から3月14日までの約3週間、共同通信記者としてマーシャル諸島を訪れた。1954年3月1日、米軍によるもので最大の水爆実験「ブラボー」がビキニ環礁で行われ、放射性降下物によって日本漁船の乗組員らが被ばくした「ビキニ事件」から70年の節目に合わせ、首都マジュロで開かれる政府主催の核被害者追悼式典や、住民らの現状を取材するためだ。

 2019年5月から約4年間、広島支局で働いた私にとって、マーシャル諸島に行くことは一つの夢だった。核兵器廃絶を訴える被爆者や市民らを取材する中で、第2次大戦後、世界各地で2000回以上行われた核実験の被害についても学び、わずかながら記事を書いてきた。

 核実験場には、マーシャル諸島のような政治や経済の中心地からは離れた場所や、実験国のかつての植民地が選ばれた。また、核兵器の原料ウランの鉱山は歴史的に虐げられてきた先住民の居住地だった。

 核兵器の本質は差別と暴力だ。経済的・政治的に力のない国やマイノリティーが住む場所を奪われ、命を脅かされる。核保有国やその同盟国が自国の安全保障や世界の「安定」のために必要だとする「核抑止力」の背後には誰かの犠牲がある。たとえ兵器として使用されなくても生まれる犠牲だ。その不公正な構造を指摘することは、動かぬ事実のように社会に受け入れられている「核抑止論」に一石を投じることになるのではないか。そんな考えがモチベーションだった。

 マーシャル諸島の核被害については、すでに多くの先輩ジャーナリストや研究者がリアルタイムの記録を残している。その内容の詳細さと深さにもはや太刀打ちすることはできない。でも、記者である限り、一度でいいから自分の目で「現場」を見たいと思いは募った。

 時の運と理解ある同僚に恵まれ、叶った念願。日本からなかなか取材のアポイントが取れず、不安いっぱいの旅立ちだったが、結果的に3月1日の追悼式典だけではなく、水爆実験で被ばくし生き抜いてきた「サバイバー」や、記憶の継承に取り組む学生たち、長年マーシャルに寄り添ってきた米国出身ジャーナリストなどさまざまな立場の人と出会い、取材できた。ヒルダ・ハイネ大統領ら政府関係者とも面会した。

3月1日の追悼式典後、ロンゲラップのサバイバー2人(最前列右から2、3人目)と記念撮影をするマーシャル諸島と日本の若者たち。前列の左から2番目は瀬戸さん(野口撮影/共同通信)

 最も長く時間を共にしたのが、ビキニ環礁にルーツを持つ人たちだった。医療支援に来た原水爆禁止日本協議会(原水協)や国連関係者に同行する形で、集団移住先の一つ、エジット島を2度訪問。日本人医師による島民の健康診断を見学させてもらったり、徒歩20分ほどで一周できる島内を案内してもらったりした。地球温暖化に起因する海洋の変化とその影響も垣間見た。文字情報として知っていた被ばく・移住の体験を当事者から直接聞き、環礁という自然環境を肌身に感じられたことは、今後も核の被害を取材し、伝えていく上で非常に重要な経験になった。

 一方で、大きな戸惑いと葛藤にさいなまれた20日間でもあった。

エジット島を訪れた原水協の訪問団と島民ら。左から4人目が市長のトミー(野口撮影/共同通信)

20分もあれば一周できるエジット島には現在、約300人が暮らしている(野口撮影/共同通信)

 象徴的な出来事として強く印象に残っている瞬間は、追悼式典の会場でビキニ環礁自治体の行政リーダー、トミー・ジーボク氏と初対面した時だ。この日をビキニアンはどんな気持ちで迎えているのか。代表の声を聞こうと声をかけた。トミー(親しみを込めてファーストネームで呼びたい)は、アポなしにもかかわらず快く取材に応じてくれた。ふと、つぶやくように言った。

 「私たちにとっては78年目だ」

 そう、ビキニの民の苦難は実験を実施した1954年3月1日ではなく、米軍が彼らを先祖の土地から追放した46年3月7日から始まったのだ。

 誰かを咎めたりするような口調ではなかった。ただ、事実を述べただけ。実験のために住民たちが故郷から強制的に移住させられたことは、渡航以前から知っていた基本的知識だ。でも、なぜか耳に残った。70ではなく78。その後、ことあるごとに、その時の彼の悲しげな表情とともにフラッシュバックした。

 きっと「78」という数字の中途半端さゆえに、最初の強制移住からこんにちまで彼らが一日、一分、一秒と積み重ねてきた時間を突きつけられたように感じたのだろう。そして次第に、その切れ目なく続いてきた彼らの時間を「70年目」と区切り、突然、現地語も分からない人間がプライベートな空間を観察し、写真を撮り、「故郷に帰りたいですか」と訊くといった「取材活動」が、とても暴力的な行為だと思えてきた。

エジットで出会った78歳の女性。1968年の米国の「安全宣言」後、約5年間、父の故郷であるビキニで暮らした。「ここの生活はあまり好きじゃない。自由がないから」と語っていた(野口撮影/共同通信)

 アニバーサリー・ジャーナリズム(記念日報道)という言葉がある。

 大きな災害や事故、事件など、ある社会で起こった歴史的な出来事について、その発生日(記念日)に合わせて集中的に報道することを指す。たいてい、そうしたメディアの姿勢を批判する文脈で使われることが多い。

 ブラボー実験では、静岡県焼津市を出港したマグロ漁船「第五福竜丸」をはじめ、周辺海域にいた多くの日本漁船の乗組員が被ばくし、死者も出た。「汚染マグロ」が市場に出回ったこともあいまって、日本社会に放射線の恐怖を思い起こさせた。「ビキニ事件」から70年。4000キロも離れた小さな島国に会社がそれなりの費用と労力をはたいて私を送り込んだ理由は、この数字にある。まさにアニバーサリー・ジャーナリズムだ。

 私は、アニバーサリー・ジャーナリズムは本質的には悪いものだと思わない。一定の区切りに過去を振り返ることは人間の自然な営みだ。ヒト・モノ・カネ、時間が有限な中で、力の緩急が生まれることも仕方のないこと。ただでさえ情報過多の時代に、「アニバーサリー」がなければ、人の記憶や歴史の流れの彼方に忘れ去られていってしまうものがほとんどだろう。マーシャル諸島の話なんて正直、日常ではほとんど見向きもされない。

 ブラボー実験は広島を破壊した原爆の約1000発分の威力があったとされ、マーシャル諸島の人々にとっても社会を大きく変えた重要な転換点だった。「70」という数字を噛みしめることは、日本人の独り善がりというわけではない。

3月1日のマジュロでの追悼式典で、先祖の土地と海に思いを馳せる歌を歌うビキニ環礁の人々(野口撮影/共同通信)

 そう頭で理解していても、「客人」としての自分の存在意義に疑問を持った。マーシャルの人々は笑顔で歓迎してくれた。これまでも何度も、外部から私と同じような立場の人間を迎え入れてきたのだろう。でも、正当な補償を受け、故郷に還るという彼らの「正義」はいまだ達成していない。記者として目にしたものを書くことしかできない「通りすがり」である私の存在は、許されるのだろうか。

 そもそも、ビキニの、マーシャルの人々が抱える問題は核被害だけではない。大陸から地理的に隔てられているなど、グローバル経済を基本とした現代社会において多くの不利な条件を抱えたこの国で、産業を育て、雇用を生み出すことは容易ではない。

 健康、医療の問題も待ったなしだ。海外からの輸入食品が流通することで、国全体で糖尿病や肥満が社会問題化している。資源が乏しい島への移住を強いられたビキニの人々は早くからこの問題に直面してきた。原水協の要請でエジット島民を診察した日本の医師によると、本来なら入院が必要なほど糖尿病の状況が重い人でも、米国から支給される飲み薬を飲んでいるだけだったという。島内には病院はなく、必要ならば首都に出る必要がある。気候変動などの影響で環境の急激な変化にも直面し、米国への移民は後を絶たない。

エジット島の海岸には、たくさんのごみがそのまま捨てられていた。首都マジュロでさえ、ごみ処理設備が不十分で、ごみ山のような場所がある(野口撮影/共同通信)

平均で海抜2メートルしかないマーシャルの島々は、気候変動による海面上昇や高潮の影響を受けている。エジット出身の自治体職員アンドリューは枯死したサンゴ礁がむき出しになった海岸を案内しながら「小さい時はここも白い砂浜で、よく遊んでいた」と悲しんだ(野口撮影/共同通信)

 マーシャル諸島の歴史を通じて核兵器の恐ろしさ、愚かさを伝えたいと思っていた。でも、私の思考は否応なく、核をどうするかという問題よりも、今、私の目の前にいる人たちが健やかに生きていくためには何が必要なのかという方向に向かった。「核廃絶」や「核兵器禁止条約」という単語と、目にしているものとの距離は大きかった。

 「あなたたちが言うところの『サバイバー』(survivor)は、誰を指しているの」

 彼らはしばしば核実験の影響を受けた人たちを「サバイバー」(生存者)という単語で表現する(ちなみに、日本語の「被爆者」もしばしば英語でsurvivorと訳される)。定義を明確にしようと、トミーに尋ねると、「2つ意味がある」と言って丁寧に説明してくれた。一つは強制移住を体験した世代。もう一つは「私たち」。

 “We are surviving nuclear legacy”

 別の機会では「『もう先祖の土地には帰ることはできないのよ』なんて、2人の息子にどうやって伝えたらいいの?」と、目に涙を浮かべながら憤る同年代のビキニアンの女性にも出会った。米国の行為は、失われたものは、決して元には戻せない。核実験の影は永遠に彼らの人生につきまとう。その重大な事実を、どう伝えればよいのだろう。嘆きを伝えるだけでは、「正義」の実現にはつながらないのではないか。答えのない問いを繰り返しているうちに、20日間は過ぎていった。

ビキニにルーツを持つ子どもたち。カメラを向けるとかっこよくポーズを決めてくれた(エジット島で野口撮影/共同通信)

 帰国してからもしばらく、頭の中は晴れない日々が続いた。私は何を書くべきなのか。何を書くことができるのか。納得いく答えが見つけられないままこの文章を書いた。

 記者である以上は書くしかない。何であっても書かなければ、聞かれなかった声があるかもしれない。そもそも、一度の訪問でマーシャルの複層的な歴史と営みと悲しみを捉えて説明しようだなんて、それこそ傲慢なのかもしれない。「私たちのことを日本の人たちに伝えて」。太平洋の向こうから託された言葉を真正面から受け止め、一文字一文字、私の居るこの社会にパスしていくしかないのだ―。執筆しながら旅を振り返るうちに、今は少しふっきれた思いがある。

 今回、訪問できたのはマジュロ環礁だけだった。離島地域は全く様子が異なるそうだ。次の機会にはさらに足を伸ばしたい。マーシャルの過去と現在を映すもう一つの「現場」である一大移民先、アメリカもいつか必ず訪ねたいと思う。故郷から遠く離れた場所で、人々はどんな生活を送り、自らの背後にある歴史を捉えているのか。その姿に迫ることで、核兵器とは、戦争とは、平和とは何かを語るための、新しい言葉が見いだせるような気がしている。自分の無知と非力さに打ちのめされながら、学び、考え続けたい。

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