2011年3月11日の東日本大震災に伴う東京電力福島第一原発事故で、放射性物質を含む大量の「汚染水」が発生した。原発敷地内でタンクに保管されていたが、2023年8月24日、東京電力は、ALPS(多核種除去設備)で処理した汚染水の海洋放出を開始した。
同年9月8日、漁業者や市民ら363人が原告となり、政府と東電を相手取り、放出差し止めを求め提訴した。
その裁判の第5回期日が2025年10月1日、福島地裁(川淵健司裁判長)で開かれた。
原告側は、6人の弁護士がプレゼンテーションを行い、ALPS処理水が人体に及ぼす影響や原告適格の判断の枠組みなどについて見解を述べた。特に汚染水の処理をめぐる政府・東電と漁業者団体の交渉経過については、2015年8月、政府と東電が福島県漁業協同組合連合会に対し、「関係者の理解なしにいかなる処分もしない」と文書で約束したことを前提に、漁業者の被害を当事者の陳述をもとに具体的に提示した。
さらに、放射能汚染で福島県浪江町を追われ現在は兵庫県に暮らす菅野みずえさんと、相馬市で食品を扱うスーパーを営む中島孝さんが意見陳述をした。意見陳述が終わると、傍聴席から拍手が起きた。裁判官に注意されたが、それほど心を打つものだった。
傍聴席はほぼ満席で、法廷には傍聴人が公判資料を見ることができるよう大型モニターが2台設置されていた。原告側は全ての資料を映し出しながらプレゼンテーションをしたので理解しやすかった。しかし、被告側は国と東電の代理人弁護士が2人とも答弁書をそれぞれ約40分かけて読み上げただけ。答弁書は裁判所と原告側の代理人弁護士に提出されているが、モニターには一切映さないばかりか、声も小さく、傍聴していた記者にはほぼ聞こえなかった。これでは何のための法廷なのか。傍聴人を無視しているようにさえ感じ、大いに疑問が残った。
原告側の吉村和貴弁護士に被告側の答弁内容を確認した。被告のうち国側はALPSやセシウム吸着装置の安全性は以前の変更認可処分にて確定しているため放出によって原告らのいう生命・身体侵害は生じないとして原告には差し止めを求める適格性がないとして却下を求めた。東電はALPSの仕組みやALPSの効能などを根拠として「海洋放出が健康被害を生じさせるものではない」とし請求棄却を求めた。
原告側が何度も言及していた「関係者の理解なしにいかなる処分もしない」と文書で約束したことについては国も東電も一切言及しなかった。

公判が終了した後、別会場で報告集会が開催された。そこで菅野みずえさんは、拍手がどれだけ原告を勇気づけるかと言い、「よく『福島事故を忘れない』と言う人がいるが、福島が事故を起こしたんじゃない。東電原発事故なんです。きちっとそう言ってほしい。『忘れない』とは終わったことに言う言葉、今終わってはいない、続いている。汚染水が流されることで未来の子どもたち、生き物全てが汚染されていくんだということを訴え続けていきたい」と力をこめて語った。
拍手が起きた生活者からの意見陳述
ここでは東電原発事故によって浪江町(なみえまち)下津島の自宅とコミュニティを追われ、現在は兵庫県に暮らしている菅野みずえさんの意見陳述「処理されても汚染水の放出は、それまでの暮らしから耐えられないことです」をご本人の許可を得て全文紹介する。(仮名遣い、句読点など、一部を修正しています)
意見陳述書
処理されても汚染水の放出は、それまでの暮らしから耐えられないことです
2025年10月1日
原告・浪江町住人 菅野みずえ
わたしは浪江町下津島の住人です。東電原発事故によって家をコミュニティごと追われて14年経ちました。現在は兵庫県に暮らしています。 東電原発事故前の暮らしは自然に囲まれたとても豊かな暮らしでした。
1 浪江町の暮らしについて
下津島は山間部に位置しますが、車で45分ほど掛けて請戸(うけど)漁港へ頻繁に魚を買いに行っていました。当時は数が揃わず築地へ出荷できない魚、外道と呼ばれる売り物にならない魚をバケツ一杯500円で買えました。わたしたちは頭のない魚を食べることのない暮らしでした。その魚は多いときは酒みりんを煮立てて醤油を入れた漬け汁に浸けて、ハエや鳥、ハクビシンに取られないように干して、農家には何処にでもあった業務用の冷凍庫に保存しました。秋になって鮭の腹子が出回るようになると、住人の間で情報が飛び交います。「腹子があがってきてるべ!」と。それを買い求め最初の腹子は軟らかく、温いお湯をボールに張って揺らせるとワタが縮んで腹子がばらばらになります。そっと掬って洗い、それぞれの家庭の味で漬けるのです。その頃は保存が利かないので、すぐ食べるものであっさりした漬汁です。やがて「おめさ餅焼き網買ったか?」と聞かれる頃になると腹子がパンパンになったということ。「2枚組だかんな、まだ買って無かったら1枚やんど」そんな話が直売所の「郷の駅」の店先で交わされるようになります。その「郷の駅」に、人々は寄り合っては互いの漬物や季節の味を交換したり、教え合ったものでした。原発事故で喪った懐かしい暮らしです。
その餅焼き網をボールに置きパンパンになった鮭の腹子を乗せて、湯沸し器の湯を流しながら撫でると、腹子はパラパラとほぐれて湯の中へ落ちていくのです。その頃はもう長持ちするので瓶にそれまでより一寸濃い味で漬けこむと 、正月に帰る子供や親せきに持たせることができました。世間でいうイクラ漬けは、我が家の冷蔵庫に何本も並んでいました。冬はほぼ一日氷点下になる地域でしたから、凍らせないために冷蔵庫に入れるのです。
10月の最後の日曜日は町の鮭祭りの日で、鮭が川からベルトコンベアに乗せられて上がってきます。大きなビニールプールに鮭が放たれ、大人も子どももその中で鮭を捕まえると持って帰れるのでした。川に釣り糸を垂れて鮭を釣っても良い日でした。もう二度と来る事のない楽しみな祭りでした。オスの鮭はその頃一尾千円もしなくて、数尾買ってさばいて細く切り分けて冷凍庫へ仕舞います。寒風が吹く頃になると玄関の風除の屋根の下にハクビシンに取られないようにして干します。寒風にさらして乾かした鮭は、酒のつまみにも子どものおやつにも、味ご飯の具や煮物にもなりました。
魚の煮つけは、何といってもドンコというハゼをとても大きくしたような魚でした。甘辛く煮付けたものは浜通りの味。唐揚げは目光(メヒカリ)です。目の大きな魚で、それは美味しく浜通りにはなくてはならない味でした。
そうやって海は、山側に住む私たちにとっても豊かな食を届けてくれる生活に無くてはならない大事なもので、海を汚さない、海へつながる川を汚さないことは生活で当たり前なことだったのです。
2 東電原発事故について
わたしの家は、福島第一原発から約27kmにあります。
3月12日、海沿いの地域から約1万人もの人々が津島地区に避難しました。小中学校や高校分校、公民館,寺だけでは足りず,避難した人々は民家にも泊めてもらっていました。私の家にも朝から次々と人がやってきて,夜には25人になりました。親戚やその友人、友人と同じアパートの方でした。
2台の圧力鍋で米を7合ずつ炊き,晩ごはんは握り飯と豚汁でした。着のみ着のままの避難してきた人たちは大部屋に集まり,遠慮しないと申し合わせ皆で一緒に食事をとりました。
25人のうちの1人は請戸に嫁いだ親戚でした。義両親が行方不明とのことで、請戸へ探しに出かけていきましたが、5km圏は立入禁止になっており、どこからも入ることができず、肩を落として帰ってきたことをよく覚えています。後に、ご両親は行方不明のままご遺体も見つからないと聞きました。
12日の夕方、わたしは家の前に白いワゴン車が停まっていることに気づ きました。車内には白い防護服を着た男が2人乗っており 、私に向かって何か叫びました。しかしよく聞き取れなかったため,「何?どうしたの?」と尋ねたところ,白い防護服の男が「なんでこんな所にいるんだ!頼む、逃げてくれ」と叫んだのです。驚きました。「逃げろといってもここは避難所です」と伝えると車の2人が降りてきました。2人ともガスマスクを着けていました。「ここは危ない。頼む30kmを超えて逃げてくれ!頼む!」。真剣な物言いで泣き声でした。家の前の道路は国道114号で,避難所に入りきれない人たちの車がびっしりと停車していました。2人の男は、車から外に出た人たちにも「早く車の中に戻れ」と叫んでいました。2人の男は、近くに避難所があるというと驚いてそちらへ走っていきその先はわかりません。
12日夜には、原発から20km圏に避難指示が出され、危機感が募り、皆で話し合いさらに遠くへ避難を決めました。乳幼児もいたので、「子どもだけでも一刻も早く逃がそう」と、翌日には全員が散り散りになって逃げました。 ガソリンが尽きるところまで逃げようと。我が家は炊き出し要員の息子がいたので残りました。
3月15日朝10時をもって全町退避と命令が出て、我が家も避難しました
避難の途中、県外へ出るときはスクリーニングの証明書が必要とのことで、 原発から50kmほど西の郡山市で、スクリーニング検査を受けました。放射線測定器を私の上着と髪に当てられた時に、パタンと針が振り切れました。上限が10万cpm(1分あたりの放射線計測回数)とされていたことは避難後知りました。「また津島!」という声があちこちから聞こえました。
上着を脱ぐように言われ、靴の裏ズボンなどは8のあたりを示しました。「また津島」と叫ばれて、分厚いビニール袋に脱いだ上着を入れられ、「一週間は使ってはダメ」と袋の口を固く縛って渡されました。いとこが着ていた「どてら」は没収されました。説明もカウンターの値も知らされることはなく、避難許可の証明書だけ受け取りました。
2016年に避難者検診で甲状腺がんが発見され、手術を受けて摘出しました。放射線を測定した記録を入手しようと情報公開請求をしました。ですが、3月15日から8日間の記録がないとのことで、手に入れられず、初期被ばくとの因果関係は突き止められていません。2015年3月に受けた甲状腺検診では異常なしだったのに1年後にリンパ節転移がわかりました。
浜通りの道の駅で、Tシャツなどに付ける襟部分だけや幅の広めのチョーカーが売られていました。お店の方に聞くと、甲状腺がんの手術痕を隠すために首周りを覆うグッズの需要があるとのことでした。首に私より大きな手術痕のある若い娘さんも見かけました。生活の質のためと、しわになるところを選んで手術されたわたしとは違いました。少ししてチョーカーなどは「風評加害になる」と取り扱われなくなりました。
3 東京電力の誠意のない姿勢
壊れた原発に流れ込む潤沢な地下水は、壊れてヒビの入った汚染された建屋に流れ込み汚染水となります。汚染水には、何百年と放射線を出し続ける放射性物質まで含まれます。このような汚染水を、海へ流して良いほどに浄化できるものを人間は本当に作り出せているのでしょうか。このぐらいは仕方がないと費用をかけずに流すこと、タンクを減らし見た目を少なくすることだけに力点を置 いているのではないかと、疑ってしまうのです。
このように疑うのは、東京電力の、これまで住民に示してきた誠意のない姿勢があるからです。
福島第一原発事故後、仮設住宅近くの学校の体育館で東電が説明会をするとのことで、住民が集まりました。すると、一段高いステージの上で東電職員が「この度の東北大震災に被災されたみなさまにお見舞い申し上げます。私たちも同じ大震災被災者です。私たちも大事な原発を津波で壊されました」と言ったのです。住民は怒りました。「津波だけならおらだちは家に還れたんだ!なんで還れないのかわかって言ってんのか!」「おめ様方が放射能降らせたからだべ!みんな仮設さ帰るべ」「東電の話さ聞いたことにさせられっぺ!」とじいちゃんが叫び、わたしたちは、「んだ!」とぞろぞろと東電のバスを拒否して歩いて帰ったのです。事故への真摯な反省や、これ以上環境への負荷をかけないことへの努力はあるのだろうかと思います。
4 黙ってみていられないー署名活動
東京電力が汚染水を海に流す計画を持っていると報道があり、浜通りのばっぱがこれを黙って見ていたならば孫たち世代に申し訳ないと思いました。
そこで、わたしは2012年の夏から浜通りに避難した連絡のつく女性たちに、汚染水放出反対の署名を訴えました。10名を超す人たちが発起人になると言ってくれましたが「婿が東電で仕事貰っているから名前は出せね」という人もいて、名前を出せたのは6人でした。
浪江町町長に仮設全てに訪問する許可をもらいたいと頼みに行くと、了解してもらえ署名用紙も預かってもらえました。全ての仮設の方々に署名用紙をお願いし、特に漁業者の多い仮設では手を取って喜んでもらえました。 漁協へ頼みに行ってくれと言われて、浜通りの漁協にお願いに行くと、二つ返事で、署名用紙を置いて行け!と言ってもらえました。縁あって関西の生協の皆さんも署名を広げてくださいました。この3万余筆の署名を当時の赤羽副大臣1に届けましたが何も変わりませんでした。
今も漁協の皆さんのお気持ちはぶれることなく「(汚染水を)流すな」のお立場です。この方々と東京電力は「関係者の理解なしには、いかなる処分もしない」と約束をしたはずです。それなのに約束を守ることなく、海へ流すことをしてしまいました。
2011年3月11日の津波で流された宮城の漁船が日本海の港に流れ着きました。海の水はこの国の周りを回っています。やがて福島の海を泳いだと知られずに、魚がどこか遠くの漁港で水揚げされて食卓に上るのです。今福島の海は海水温度が変わり、フグ、ズワイガニ、イセエビが豊漁になると親戚が知らせてきます。海の底さ歩いて来んだよ。カニやエビは大丈夫だべか。汚れた海の底さ歩いて来んだよ。長い時間さ掛けてよ。不憫でならねというのです。
司法にお願いします。人間が、海の生き物が、魚を捕らえる鳥たちが汚染されることの無いように、どうか総ての生き物の立場でご判断ください。私は未来の世代を守りたいのです。
汚染水は処理されたとしても取り切れない放射性物質があるのは明白な事実です。固化して積み上げればもっと確実に保管できるのではないでしょうか。 現在のタンクより安全に確実に長期保管に耐えるでしょう。いつの日か処理できる技術が見つかるまで保管をと願います。
残り少ない人生です。私は生きた証に未来を生きる人たちに、今責任を持ちたいのです。微量であっても毒かもしれない物を海に流すことを黙って見てい た大人にはなりたくないのです。
子どもの頃、親に何故戦争に反対しなかったのかと問い詰めて、言える時代ではなかったのだと言われた私は、今何でも主張できる時代に、毒を海に流すなとちゃんと言う大人でありたいのです。
5 終わりに
どうか司法にあっては、未来で待つ生き物のためにまっとうな大人でありたいわたしたちの願いを受け止めてください。子どものころから三権分立、信頼できるのは憲法に則して揺らがない司法だと習ってきました。
裁判官の皆さんにお願いします。
どうかこの海と、海につながるすべての命が少しでも汚されないよう護ってください。
- 当時、赤羽一嘉衆院議員は、経済産業副大臣兼内閣府副大臣だった。 ↩︎
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