女性は道具ではない 人口減の議論に思うこと

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人口減のニュースにもやもや。なぜいつも「女性問題」にするのか

 「若い女性の定着が重要」「若い女性の定着回帰を目指す」—。人口減少への対策としてこのような言葉を見聞きするたび、違う、そうじゃない、と強く思ってきました。6月5日、厚生労働省が2023年の人口動態統計を発表し、秋田県は出生数が「ワースト」ということで大きなニュースになっていました。東京都の合計特殊出生率は過去最低の「0.99」とのこと。

 データは、分かりました。

 自分がずっと、もやもやと苦しく感じてきたのは、人口減の原因としてこれでもか、これでもかと「女性」に焦点が当てられ続けていることです。

疑いもなく「若い女性」に焦点をあてる

 「女性の社会進出」が少子化の原因だと分析され、ふと気づいたら一転「女性活躍」と言われるようになり、その舌の根も乾かぬうちに、今度は「若い女性」をターゲットに少子化対策。露骨なまでに「いかに産ませるか」が論じられ、税金が投入されている。

 私の住む秋田県でも「若い女性の定着回帰」が重要な施策となっています。秋田県のホームページで「若年女性」と検索すれば数々の施策がヒットします。結婚支援センターもそのひとつです。
 そして地元のメディアでは「若い女性に的を絞る」という論を展開する識者の声が、大きく取り上げられています。

 そこに貫かれているのは、疲弊した地域のため、人口を増やすため「若い女性が住みやすい地域にする必要がある」という考え方です。疑いもなく、当然のこととして「若い女性がポイント」であると論じられている。

 人権や多様性に目を見開いて「若い女性も住みやすい地域にする」と言っているのではなく、人口増加政策を考えるなかでターゲットとして“発見”したのが「若い女性」。そういう考え方です。主客、本末があまりにも転倒しています。

 さらに言うなら、「若い女性の定着回帰」という施策において、生まれてくる子どもたちは、どのような存在としてとらえられているのでしょうか。「いつか働いて税金を納めて、子どもを産み育てる存在」でしょうか。そこに優生思想が入ってくる余地は、ないと言い切れるでしょうか。

積み上げてきたものが一瞬で崩される感覚

 さまざまな差別や構造的な格差を背負って生きている人々の声、多様性が、ようやく少しずつ可視化されてきたのに、一瞬で突き崩してしまうような乱暴な見方であり、政策です。

 私たちが生きる社会は難問だらけです。その難問に一つ一つ向き合っていかなければならないのに、時間がかかると思ったのか、無理だと諦めてしまったのか、いまは手っ取り早く「産ませるには?」という思考になっている。

 「産む性である若い女性に、わが地元に定着してもらうしか人口減を止める手立てはない」
 「そのためには、産む性である若い女性が生きやすい地域にせねば」
 そういう思考にとらわれ過ぎているように思います。それは、女性を産む道具としてとらえるものであり、産まない/産むことのできない人たち、婚姻を選択しない/選択できない人たちを軽視するものであり、本当に向き合わなければならない地域の課題や社会構造の問題から巧妙に目をそらさせるものです。

 特効薬はないですし、こうすれば課題が解決するというものでもない。人口減を悪ととらえ、人口増を「効果があった」ととらえること自体、もしかしたら変えていくべきなのかもしれません。

この社会で、子どもたちは生きていけるのか

 この社会を、誰もが人権を尊重されて生きやすいものとなるよう地道に包括的に変えていくことしか、私たちはできないと思います。そうして結果的に、産みたいと思う人が産めて、住みたいと思う人が増えたら、それでいいのではないでしょうか。そして、それはあくまで結果であって、政策目標にした瞬間、私たちの社会は簡単にいつか来た「誤った道」へと進んでしまうと思います。

 私のいた新聞業界には「ママ記者叩き」という言葉がありました。「ケアの必要な存在がいる労働者」「ばりばりと働けない労働者」を「お荷物」のようにとらえるワードです。これは、新聞業界だけのものでしょうか?

 社会全般がそうなのです。子ども子育て支援法の審議の過程では、子育て支援金による負担増を苦々しく思う人たちから、SNS上で「子持ちさま」という揶揄も飛び出しました。

 工夫やスキルアップや成長を労働者に求める一方、組織の構造的な問題や病巣には手を付けようとしない。そうして、子どもがいること、子どもを育てながら働くことは「過酷」「迷惑」と思わせてしまっている。責任転嫁です。

 賃金は上がらず、物価は上がる。仕事はビルドビルドで増えるばかりなのに「効率よくやれ、効果も上げろ」と求められる。ハラスメントはなくならない。追い立てられて身も心もくたくた。「何のために生きているのか」と思わない日はない。そういう社会をこれからも、子どもたちは生きていくのでしょうか? 

構造的な問題から目をそらさずに

 働くことができなくなったとき、国民を支援するための生活保護制度は決して安心して利用できるものにはなっていません。声を上げられずにいる人、弱い立場に置かれている人たちには、どこまでも冷徹になれる。「なかったこと」にできる。組織には、権力には、そういう側面もあります。

 人権、多様性をおろそかにしてきたから、今があるのではないでしょうか。人口が減った理由を探りだして、人口増加のために「多様性だ」「若い女性だ」と言うその発想こそが、すべてを物語っているように思います。そしてもし「効果」が上がらなければ、今度は「若い女性」支援からも撤退するのでしょうか。

 友人の女性たちは今朝、そういうとこだよ、と言っていました。そういうとこなのです、ほんとうに。

 どんなに取り繕っても、女性を産む道具と見るような社会では、息ができません。息ができないところで、人は暮らせないのです。

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