1日は映画の日。気になっていた2本をはしごした。ケイト・ブランシェット主演の「バーナデット ママは行方不明」と、サリー・ホーキンス主演の「ロスト・キング 500年越しの運命」。どちらも中年クライシスに陥ったヒロインが、自分のしたいこと、できることを見つけて邁進し、成し遂げるという胸のすく物語だった。
でも、気になったことがある。それは「主婦」という言葉遣い。
「バーナデット」のパンフレットや広告文には「シアトルの個性的な年代物の家で暮らす主婦のバーナデット」と紹介がある。「ロスト・キング」は「2人の息子を持つ主婦のフィリッパ・ラングレー」とヒロインを紹介する。
「全然ちゃうやんか」
「主婦」の映画という先入観を持って観に行った私は映画館の座席で、「全然ちゃうやんか」と驚愕した。
バーナデットは若くして有名な賞を取った建築家。だが、施主の都合で建築物は完成を見ずに取り壊され、深い喪失感に陥る。IT企業のエンジニアと結婚するが、彼は多忙。3度の流産を経て授かった娘は心臓に疾患があり、ワンオペ育児で仕事に復帰できないまま、引きこもる。映画は彼女が娘の自立を受け入れ、南極基地を設計するまでを描く。
フィリッパは夫と離婚し、2人の息子を養育する働くシングルマザー。持病の筋痛性脳脊髄炎を理由に昇進の機会を新人女性に奪われ、上司に抗議するが、受け入れられない。息子たちは父母の家を行き来しながら暮らしている。元夫には「僕たちは2つの家の維持費を抱えるんだから、君が仕事を辞めたら困るよ」と釘を刺されてしまう。その彼女がシェイクスピア劇を観たのをきっかけに英国王「リチャード3世」の遺骨探しに奔走し、ついに見つけるという物語。
これ、2人とも「主婦」ですか?
それぞれに事情があって、仕事をあきらめたり、仕事をあきらめきれなかったりした女性を、「結婚しているから」、「子どもがいるから」という理由で「主婦」というカテゴリーに閉じ込めることは、「あり」なんでしょうか?
まだ残る「結婚していれば、主婦」
ここで告白すると、かくいう私も33年前、新人記者として間違いを犯した。当時、地方支局にいた私は、保健師の公費による海外視察の原稿を書いた。整理部が付けてきた見出しは「主婦が欧州視察」。私は「見出しを直してください」と言い出せず、受け入れた。後日、当事者から「私たちはパートかもしれないが、保健師の資格を持って働いている」と抗議を受けたが、訂正までには至らなかった。
日本では、女性が結婚していれば「主婦」というカテゴリーに自動的に分類されてしまう。仕事を持たなければ「専業主婦」、仕事を持っていれば「兼業主婦」。どんなに専門職でも、夫より稼いでいたとしても、「兼業主婦」扱いされることが未だにある。その価値観が21世紀になっても、映画宣伝や広告、新聞記事で幅を利かせている。これは「主婦」には能力がないとか、男性と比べて一段低いとかいう評価とセットだ。何もできないはずの人が何かを成し遂げたからこそニュースになる、というバイアスがそこには確実に存在する。
私たちはそろそろ、「普通の主婦の偉業、冒険」という表現から脱却すべきではないかと思う。
それぞれがままならぬ思いや事情を抱え、懸命に人生を生きる一人の人間なのだ。
私は「主婦」でも「家事手伝い」でもない。一人の名前を持った人間だ。そう宣言したい。2本の映画を観ながら、そう強く思った。
(阿久沢悦子)