私の周囲の教員、元教員の間で、評価が真っ二つに分かれているドキュメンタリー映画がある。
「小学校〜それは小さな社会〜」(2023年、日本、アメリカ、フィンランド、フランス合作、99分)だ。英国と日本にルーツを持つ山崎エマ監督は、大阪の公立小学校を卒業。アメリカで映像制作の仕事をする中で、「どうしてそんなにがんばれるの?」と聞かれた時、自分の土台は日本の小学校で作られたと思い至ったという。
子どもたちが自ら給食当番や掃除当番を担い、細かい規則や集団生活における協調性を学ぶ。運動会や音楽会は何週間も前から準備し、できなかったことができるようになるまでがんばる。
あれは、世界では珍しい体験だったんだ——。そう考え、映画制作を決意したという。
舞台は東京都世田谷区立塚戸小学校。住宅街にある児童数1000人の大規模校だ。名物先生も名物校長もいない。ある種、典型的な日本の小学校の風景が淡々と映し出される。山崎監督はコロナ下の2021年4月から22年3月まで、1年生と6年生を中心に学校生活を追った。子どもたちがカメラを意識しなくなるまで通い詰め、700時間分を撮影。そこから99分を編集した。
上履きの乱れを子ども同士でチェック
教員の評価が分かれるのは、規則を重んじる集団生活のありようを、是とするか非とするか、だろう。
映画にも、下足箱の中の上履きのつま先の乱れを子ども同士でチェックする場面や、手洗いの励行、給食当番の整列、集団登校などの様子が登場する。子どもたちは1年生に入学するなり、「手はまっすぐ伸ばして耳の横」と手の挙げ方まで細かく指導される。
昔に比べ、学校教育は個性や多様性を重視するようになってきた。とはいえ、2015年の学習指導要領改訂による道徳の教科化、2007年以降の学力テスト偏重、下着の色まで定めるブラック校則など規範が強化されている部分もある。
映画にナレーションはなく、是か非かのジャッジはしない。「日本の子どもは小学校を通して『日本人』になる。そのように育った日本人が日本社会を作っている。映画を、そのことに気づくきっかけにしたかった」と山崎監督はいう。
私の友人の元教員は「日本の小学校で日常行われていることは、客観的に見るとグロテスクで正視できない。正直、キツかった」と話した。出てくる子どもたちが規格から大きくはみ出ることがなく、教室には障害児がいない。いじめも不登校もない。そんなことも気になったという。
一方、別の現役教員からは、「外の目を通して、自分たちの仕事について改めて評価してもらえた気がした。日本の教育はダメだと言われ続けて来たので」と歓迎する声もあった。
海外の映画祭では高い評価
海外では絶賛の声が相次いだ。フィンランドでは20館で公開され、4ヶ月も上映が続くロングランヒットになった。ヨーロッパ最大の日本映画祭(NIPPON CONNECTION)と北米最大の日本映画祭(JAPAN CUTS)で観客賞を受賞。エジプトでは、映画に出てくる掃除や日直制度、学級会などの「TOKKATSU(特別活動=特活)」を取り入れる動きが進んでいるという。
映画は決して安易な「日本スゴイ」論に流れてはいないが、これまで否定的に捉えられてきた日本の教育にも、いいところはあるのではないかというトーンに貫かれている。
そこで忘れてはいけないのは、戦前、統率と集団主義、精神主義が子どもたちを「少国民」にし、戦場へと駆り立てたという歴史だろう。「教え子を二度と戦場に送らない」という反省から日本の戦後教育が出発したとするならば、80年経っても相変わらず学校教育が統率と集団主義、精神主義に貫かれているという事実をどう考えたらいいのか。ファシズム教育に対する怯えが消え、グローバルな相対主義に開かれたところにこの映画のヒットの要因があるともいえる。
未来の日本の教育の行方は
二つの映画を対置したい。
斉加尚代監督はドキュメンタリー映画「教育と愛国」(2022年)で、近年の歴史教科書検定、道徳の教科化を軸に、日本の教育の反動を浮き彫りにした。戦時中のアメリカで日本の学校教育が、ある意味「クレイジー」なものとして研究されていた歴史も明かされる。コロナ以前ではあるが、2017年というほぼ同じ時期に、同じ日本の学校を撮っているのに、見える風景が全く異なることに気づくだろう。
メキシコの劇映画「型破りな教室」(2023年)は実話を元にしている。アメリカ国境に近い学力最底辺校に赴任した教師フアレスは、机と椅子をとっぱらい、子どもたちと車座で語り合う。「間違えた人は学びのきっかけを与える。一番間違えた人が一番えらい」と鼓舞し、生徒が自分自身で答えを出すまで徹底的に付き合う。「秩序と従順は歯車を作るだけ。歯車でいられなくなったら捨てられる。そんな教育でいいのか」というフアレスの問いかけが耳に残った。
「小学校〜それは小さな社会〜」の英題は「THE MAKING OF A JAPANESE(日本人の作り方)」。キャッチコピーには「いま、小学校を知ることは、未来の日本を考えること」とある。
まず映画でありのままの現状を観察した上で、未来の日本の教育の姿を考えてみたいと思った。
シネスイッチ銀座ほか全国順次公開中。
劇場情報など詳細はhttps://shogakko-film.com/
「集団の中で生活し、社会に出る練習をしている」「いいところと悪いところが隣同士」 山崎エマ監督インタビュー
——フィンランドでヒットしたというのが意外な感じがしました。
私も「教育大国」と言われるフィンランドで、まさか自分の映画がこんなに広がりを持つとは思っていなかった。フィンランド人は、そもそも教育への関心が高い。「学力世界トップ」と言われてきたけれども、フィンランド人自身から見ると質が落ちてきているという感覚があるらしい。具体的に言うと、「自由」と言い過ぎた結果「自分たちのことしか考えられない子どもたちが増えてしまっている」と。その中で、この映画をきっかけに「コミュニティの中でどう過ごしていくか」というヒントをもらって、自分たちの教育について考えようというムーブメントが起きたと聞いています。まるまる日本の教育をまねしたいわけではなく、何らかのヒントが日本の小学校には詰まっているのではないかと思われたようです。
——映画を制作したきっかけは?
ニューヨークに住んで、社会人として働き始めた時に、自分としては普通に仕事をしているだけで、「すごいがんばりますね」と言われたんです。映像制作って共同作業なので、人に迷惑をかけないのはもちろん、自分の役割を果たす義務がある。それがほかの社会人一年生よりできていたということなんですね。小学校の集団生活で学んだことが自分のベースになり、それが強さになっているのだな、と気づいたんです。
自分の小学校経験をアメリカの友達に言うと驚かれます。
「運動会を何週間も練習するなんて、アメリカでは聞いたことがない」
「掃除当番や給食当番を子どもがする」と言うと、「やりたくない人はどうするの?」と的が外れた問いが返ってくる。ああ、感覚が違うんだと気づいて。
自分が当たり前と思っていることは、彼らから見ると当たり前じゃない。
日本人のことを理解するには、ある意味、その特性は「小学校」に詰まっているんじゃないかな、と思いました。
——私は道徳教育や学力テスト偏重で、統制が厳しくなってきている部分があると感じています。
私が見た現状では、そういうこと(管理・統制)をやる先生もいれば、やらない先生もいる。「手は耳の横でまっすぐ伸ばす」という指導が映画の中にも出てきますが、手の挙げ方は一つしかないのか、といえばそういうことはないですよね(笑)。でもそういう教育がベースにあるから、今のこの日本社会がある。それがいいか悪いかは複雑な面があると思うのですが、海外の人がこの映画を見て「だから日本の社会はこうなんですね」と納得する。電車が時間通りに来るとか、列に整然と並ぶとか。それは意図したことで、小学校の教育が違うと今の日本社会のありようも違うんじゃないかということに気づくきっかけにしたかったというのがあります。
昔より、規律が厳しくなっているという感覚は私は、全くなかった。どちらかというと指導面ではかなり緩くなったと思います。日本の教育界ではこの20年ぐらい、子どもの「ありのままを認める」「褒める」「自己肯定感を上げる」という努力がされてきた。それを何よりも感じた。自分の時代とは全然違うなというか。「給食を時間内に食べ終わらないからといって、掃除当番にガガッと机をはさまれる」ということは、今は全くない。個人の特性やニーズに合わせていると思いました。
「廊下の右側を歩く」のは人がぶつかるから、というプラクティカルな理由も聞きました。あの学校には1000人近くの子どもがいて、規律は人数が多い中で安全を保つための工夫でもある。1年生の時にちょっと強めに締めると、あとはだんだん緩めても規律が保たれるというのは、一つのやり方だなと思いますね。
コロナ禍で命の危険と重なると言う空気があったから、余計に(統制が)目立った印象を持たれたのかもしれませんが、自分の中では、こんな感じかな、と思いました。「6歳児は世界のどこでも同じようだけど、12歳になる頃には、日本の子どもは“日本人”になっている」。規律とか、役割とか、期待されていることのベースがある程度揃っているから、日本人に見える。それはいいところでもあるし、みんな同じであることの窮屈さは課題でもある。いいところと悪いところが隣同士だと思います。
——練習不足でシンバルが叩けずに泣いてしまう女の子に、先生が「泣いたら上手になるんですか?」と強めに圧をかける場面では、自分の同じような体験を思い出しました。褒める傾向が強まる中で、指導のベーシックな部分は変わっていないのでは?
あの場面はあえて取り上げました。実際には先生が子どもにあれだけ強く言う場面はかなり減っていると思います。私は先生にああいう経験を与えてもらって乗り越えて、恥をかくことも学んで大人になっていった。それが今の「がんばればできる。できた!」という感覚の基になっている。厳しめの先生、優しい先生、と色んな先生が周りにいる中で、子どもの資質を見極めて、情熱と愛情を持って指導するのが教育という場ではまだまだ大事なんじゃないかと、思いを込めたシーンでもある。
時代とともに強い指導をやらない方がセーフとされ、簡単な道を行きがちになっている。親御さんにもいろいろ言われながら、正解がない中で働いている教員のみなさんの視点が、表に出ることも少ないと思うので、みんなで考えるきっかけにもしたいと思った。こういう教育があるから日本の社会がある。なくなれば日本の社会の形が変わっていく。規律がちゃんとしている、みんなが配慮し合って生活する社会のありようは、世界から褒められる。それなのに教育だけ叩くのは違うんじゃないかと思っていて。
——日本では教育を語る時に、全肯定か全否定かになる……。
特に後者の方が多いと思います。この映画は700時間を99分に編集しているので、ありのままというよりは自分が選んだ場面を凝縮したものですが、日本の教育のプラス面もハイライトしたいと考えました。日本では「今の教育、全部ダメだよね」という感じがあるから。私は、課題はあるけれど総合的に考えたら、日本の小学校はいいと思っているし、自分の子どもも日本の小学校に入れたいと思っている。でも世に聞こえてくる声は違う。先生たちも新聞記事の見出しで「負担が多い職業」とか書かれて、なり手がいなくなっちゃいますよね。実際はやりがいがあり、子どもたちの成長を感じられ、自分の成長の起爆剤にもなる。正解がない中、悩みながらやっている教員の姿を取り上げたかったというのもありますね。
——名物校長や名物先生が出てきません。なぜこの学校を選んだんですか?
許可がなかなか下りない中で、30校ぐらい見て回りました。最終的に世田谷区が引き受けてくれた。この学校は典型的な日本の小学校だと思うんですけど、実は教科と教科の間の時間、子ども主体の時間に力を入れているんですね。そうした部分を取り上げることに歓迎的だった。振り返ると自分の母校と雰囲気が似ているところを自然と選んでいたのかな。大規模校で近くに大きな団地があって、子どもがいっぱいいる。行った瞬間からすごく惹かれましたね。自分の経験をベースに撮りたいというところがあったんでしょうね。
——子どもたちの自然な表情が捉えられています。
2020年4月から撮る予定で、2019年末から通い始めた。ところがコロナで全部ダメになって、2020年の秋からまた撮影準備を始めて、その期間に知り合いのご家庭を増やしていったんですね。撮影時には新6年生になる5年生の教室に通って、撮り方の工夫を試したりして。新1年生は保育園で親御さんと知り合いになって小学校入学準備から撮らせてもらいました。1年生は入学式から撮影隊がいたので、「学校はそういう所だ」と思ってもらえたみたいで。カメラがあって、机があって、エマさんがいる、みたいな。2年生になって、撮影が終わり教室から撤収したら「あれ?どこ行った?」と思ったんじゃないかな。上級生の方は「撮るよ」とちゃんと説明して、たくさんの子がいる中で、どういう子がいいかと観察しながら、撮影しました。
——2021年夏は非常事態宣言の中での東京オリンピック。休校期間もあった?
いや、休校はなかったですね。日本は、分散登校はあったけど、休校はしなかった。休校はコロナが始まった2020年の春だけですね。欧米では1年ほど閉まっていた学校がある中で、よく開いていたなと思います。私は、オリンピックの公式映画の仕事もしたので、矛盾も感じました。世界中からオリンピアンが集まっているのに、同じ東京の子どもたちは修学旅行にさえ行けない。異様な時代の感覚を生で感じたというところはあります。結局、時期をずらして修学旅行には行けたんです。あの時は先生たちの最大限の工夫が見えました。今となれば失敗といわれることもありますが、クリエイティブに、安全を確保しながら、学びを止めずに思い出も作る、そんな努力をしていたなと。子どもたちも我慢の中に楽しみも見つけて、学校に登校し続けてプラスの面もいっぱいあったんじゃないかなと思ったんですね。
——なぜ、日本は休校しなかったんでしょう? 学校コミュニティーが強いから?学校が福祉機能を持っていて、給食があって託児機能があるから?
学校という場所の役割の優先順位が日本は高いんだと思います。勉強するだけならオンラインでもやれるけど、日本の学校は、生活面を含めて人の中で人と共に成長していくことに主眼を置いている。学校生活の中で、社会に入っていく練習をしている。それってやっぱり人と一緒でないとできないし、学校は教科学習以上のものを求められている場所だから、開いていたのかなと思います。海外、特にアメリカでは、コロナ期間中、1年半も休んでいた子どもたちが学校に戻れないという話はよく聞きますね。
——映画の中の子どもたちに自分の小さかったころを思い出したり、息子たちが小学生だったころを思い出したりしました。
変わってないところもあって、進化しているところもありますよね。色は変わってもランドセルを背負っているし、1年生は黄色い帽子をかぶっているし、学校のつくりも日本は本当に統一されている。それも含めて普遍的で典型的だなと思います。
——「いま、小学校を知ることは、未来の日本を考えること」とキャッチコピーにあります。日本の教育の未来をどんな風に考えていますか?
周りも自分も大事という方向に向かって行けたらいいのかなと。欧米では「自分が大事」。日本は「周りに協調する」。ただそれだけに同調圧力も強い。 気候変動のような人類的な課題がある中で、「自分だけがいいでは生きていけない」という感覚が若い人たちに広がっています。日本は小さいころから集団の中で生活しているから、その感覚は身についていると思います。その中で個人のニーズにも合わせられ、多様性を認められるようになるとなおいい。今の日本の学校に、個人の選択肢がプラスされるとより良くなれるんじゃないか。そのためにも今ある日本の強さとか良さとかに気づくことがとても大事だと思うんです。気づけずにいると変わっていけない。気づきを受けてより生きやすい、過ごしやすい、色んな人が幸せになれる場所を目指すのが理想だと思います。