「燃えあがる女性記者たち」in 広島 本音トークショーを完全リポート

記者名:

女性記者、めっちゃ燃えあがってる!!!

 インドの小さな新聞社を追ったドキュメンタリー映画「燃えあがる女性記者たち」の上映が4日から、広島市西区の「横川シネマ」で始まった。映画では、インドの被差別カースト「ダリト」の女性記者たちが、自分たちの問題意識に基づき、現場に入り込んで報道を続ける姿が描かれており、各地で好評上映中だ。
 この記事では、広島での初回上映後にあったトークショーの内容をリポートする。登壇者は生活ニュースコモンズ記者の吉永磨美さんと、広島在住のフリーランス記者・宮崎園子さん。ともに全国紙記者として勤務した経験があり、現在はフリーランスの立場で新たなジャーナリズムのカタチに挑戦する2人のトークは白熱!映画から考えるジャーナリズムのあり方やメディアの現状について、本音で語り合った。
(小山美砂)

映画を観て――突き付けられた報道人の立場

宮崎 私は広島在住のフリーランス記者です。19年間、朝日新聞で仕事をしていましたが、2年半ほど前に辞めて、引き続きフリーの立場で取材を続けています。

吉永 私は今、「生活ニュースコモンズ」というネットメディアで記者をしています。この7月までは、毎日新聞の東京本社で記者をしていました。有給休暇に入る4月までは、くらし医療部というところの所属でした。それよりもさかのぼると、昨年7月まで、新聞社の労働組合で、「日本新聞労働組合連合」(新聞労連)という組織があって、委員長を2年間務めました。その後、1年経つか経たないかで新聞社を辞めることになったんですね。これは何を意味しているかというと新聞に絶望したとかそういうことではなくて、メディアの可能性に思いを寄せて辞めたということです。

宮崎 私たちの共通点といえば、全国紙で女性として記者をしてきたということと、それを辞めて何か次の新しいことをやっている、引き続きジャーナリズムの世界の片隅でやっているというところになります。今日は映画「燃えあがる女性記者たち」、ご覧頂きました。まずは吉永さんの感想を聞かせてください。

吉永 本当に涙なしには見られない。ジャーナリズムの原点ですね。記者が本来何をすべきなのか?メディアがどうあるべきなのか?ということを、一つ一つ教えられる、という感じでした。一番心に刺さった言葉は、メディアは「単なるお金儲けじゃない」と。責任をもって正しく力を使う、と。

生活ニュースコモンズの吉永磨美記者(右)と宮崎園子さん

宮崎 映画の中で「力」という言葉が何度も違う形で出て来たと思います。権力だったり、暴力めいたこともありましたが、「力を正しく使うんだ」と。私も印象に残りました。重たい言葉だなと思って聞いておりました。

吉永 やっぱりこの、映画に登場する新聞社「カバル・ラハリヤ」が徹底しているのは、あなた方はどちらに立っているの?ということ。それを突き付けられた。やっぱり人々、生活者の視点、ということですね。

 選挙報道についても、今みなさんがご覧になっているテレビの選挙報道とはちょっと違うなと思われたんじゃないでしょうか。まず私たちが疑問に思っていることを政治家にぶつけて、この政治家はそれに対してどのように答えていくのか、という事を報じたり。また、女性の問題……性暴力被害者の話も出てきたりしました。被害者や見えないところ、特にインドの社会で表に出ないところをしっかり問いかけていく。権力と一般の人々の間にある力の差というものをちゃんと認識して、それは対等なものではないんだという視点から徹底的にメディアの役割を果たそうとしているな、と思いました。

宮崎 そうですね。彼女たちの姿について、遠いインドの話と取るか、私たちと地続きの問題ととるか。それぞれ皆さんの立場によって考えるところは違うと思いますけれど、私は地続きだな、と感じました。やっぱり権力と民衆、社会があって、ジャーナリズムはどこに存在するものなのか。今、すごくいろんな問題で問われていると思う。それを、この映画は描いているなと。私の意見として、彼女たちの報道は「あるべき姿」だと感じました。メディアは社会の合わせ鏡だ、という言葉もありました。本当にそうだなと思います。

 では、日本のメディアないしジャーナリズムの現状はどうか。私たちはマスメディアを離れる決断をしましたが、色々思うことがありました。吉永さんに、なんで辞めなきゃいけなかったのかということを伺いたいと思います。新聞労連という連合体で、毎日新聞だけじゃなく広く色んなメディアを見てきた経験もあり、既存メディアへの問題意識があったと思います。どのような課題認識でおられますか。

大手メディアの現状

どんどん人が辞めていく

吉永 辞めた理由と、すごく直結していることなんですね。ただ、絶望的な話ではありません。今メディアでは、若い人も若くない人も辞めていっている。離職者が非常に多いのは産業界の課題となっているんですね。部数減というのもあるが、それ以上に人材がどんどん離れていっている。新聞労連の委員長をやっていた時も、どんどん辞めていくな、と感じていました。

 それは何かというと、新聞に限らず放送も含めてですが、何も「起きてない」んです。起きてないから、離れるんです。要は現状維持で、変わらないんですよ。

 今、社会は多様性、ジェンダーということを企業だとか組織だとか学校だとかで考えよう、という流れが来ていると思うんです。ですが、それを一番声高に訴えているメディアの内部が男性中心なんです。これ本当びっくりするんですけど、某大手メディアの社会部、いわゆる事件だとか福祉の問題だとか、弱者のことを取り上げる編集局の中で、「デスク」という記者の原稿をまとめる立場の人が例えば6、7人のうち、女性がゼロとか。今の時代、少なくとも2人とか3人とかいると思うでしょう? でも、ゼロとか1人とかなんです。

 社長とか重役クラスだとゼロ、というところだらけなんです。本当に何が言いたいかというと、組織って上が変わることで全体が変わっていくんですよね。そういう中で新聞社は、価値観自体が全然アップデートされていない、変わっていない。だけどいま入社してくる新入社員は半分が女性、もしくはそれ以上と言われています。過去の私たちの時代は2割しかいなかった。それが女性が入ってきているし、男性も男女平等の教育をちゃんと受けていきている。だから、(若手社員と)わかっていない世代との乖離がすごいことになっている。

 男性中心で仕事をやっている方たちは、「男性だって女性のことわかってるから大丈夫だよ」とおっしゃるんだけど、やっぱり価値観っていうのかな。男性中心でつくってきた価値観が、アップデートされたり、戦前から戦後に続く新聞社においては省みられたりすることがなかったので、どうしてもマッチョな、そういう感覚でニュースを処理していくっていうことになるんです。その中で女性記者や男女問わず若い記者たちは、「あれ、これ、自分が今まで過ごしてきた生活と違う」「私の感覚と違う」と疑問を抱くことになる。ひどいハラスメント嫌がらせを受けることはないんだけど、自己矛盾を抱えてなんかやりきれない気持ちで辞めていく、ということがすごくある。

宮崎 世の中では女性活躍推進とか、「女性が輝く」とかいろいろ言われている。メディアの世界だけじゃなく。この間、岸田首相も(組閣に際して)「女性ならではの感性」とか言ってましたけど。私、21年前に新聞社に入りましたけれど、その当時よりも(女性の活躍について)耳にする機会は増えたと思います。でも、変わらない?

吉永 変わらないんです。ここは本当に不思議で、変わらないんですよ。メディアってすごくダブルスタンダードだなと思う。表ではすごく格好いいことを言うが内実が伴ってないんです。だからここ2、3年くらいの間に入社された方、ジェンダーで新聞やテレビが頑張っていると、期待して入ってくると、とんでもない。女性蔑視的な発言をする上司がいることで傷つけられたり……理想と現実のギャップに苦しんで辞めていく。

 で、昔は新聞社に我慢してでもいた方が「書ける」かな、ってみんな思うから我慢してきたんですよね。私達の世代はそうでした。ただ、今はネットが普及し、大きいものがいい時代でもなくなっているし、絶対的に新聞社とか放送とかビッグメディアが有意である、という時代とも違うと思う。どこでも発信できるしどこでもやれる。しかも大きければ良いというものではない、大きさは関係ない、質なんだ、という時代に入ってきている。そういう中で、そこまで頑張らなくてもいいんじゃないか、っていう人が増えてきている。自分に見合った、自分らしい人生を送るためにどうしたらいいか、と考えて、新聞社を辞めるとか放送局を辞めるという選択肢が普通になってきている。

メモを取りながら熱心に聞くお客さんの姿もありました

地方に多様な女性の働く姿がない

宮崎 自分自身のことを振り返ってみると、2017年4月に、夫も子どもも同伴して広島に「BB」として赴任してくれ、と言われたんですね。BBというのは「ビッグブラザー」と言って、記者を束ねる立場のことです。デスクの一枚下で記者が出してくる原稿を直したり、記者の教育をしたりします。広島で初の女性BBだったんですけど、「ブラザー」です(笑)。

吉永 それも男だよね。

宮崎 その時は私、意気揚々と乗り込んだんです。吉永さんの問題意識にもありましたけれど、私も若い記者が辞めていく流れをなんとかしたいと思っていたんです。全国紙は入社した記者って、まずは地方に赴任するんですね。でも、地方には多様な女性の働く姿がないんですよ。

 朝日新聞も毎日新聞もそうだと思いますけれど、だいたい地方の取材網にいる人って若者、もしくは単身赴任で来ているおじさんばかりなんですね。私は子育てしてますけれど、子育てをしている女性記者が、男も女も関係なく普通に働いている姿を見ることがほとんどないんですよ。その見ることのなさに絶望して辞めていっているような気がしたんです。だから、本社じゃなくて地方で子どもを育てながら、地域で普通に暮らしながら働いているよ、ということができて、それが役に立てればと思っていました。

 だけど、結局「君は東京に行ってご機嫌よくキャリアを積んでくれ」と言われて。私は地方に、若い記者が最初に働く現場にですね、もっといろんな働く姿がなきゃサスティナブルじゃないと思ったのでそういう人生を選んだ。だけど、地方でそういうことをやってもらったら負担がかかる……泊まり勤務が出来ないとか、災害取材があった時に「子どもを放り投げては、お前行けないだろ」とか。要は「お荷物」になるから東京に行ってくれ、ということだったんでしょうね。それってちょっと違うなと思った。私は私で女性記者としてキャリアが積めたとしても、じゃあ社会のありよう、マスメディアのありようとして、これはサスティナブルだろうか?と思って。

 だけど新聞社を辞めたら書く場所がなくなる、と言われるんですね。私も辞める時に嫌というほど言われました。だけど、書く場ってあるんですよね。影響力の大小はあるにしても、いろんな形で発信できるんです。で、実際、みなさんもこれ、スマートフォン持ってますよね。誰だって、こういうツールを持って、どこからでも何でも発信できる時代にいつの間にかなっていたんですよね。

吉永 いつの間にか、なんだけど、実は20年前から始まっていたんですね。

宮崎 そうですね。ポケットベルが配備された最後の世代でした。

吉永 私もポケベル世代でした。1番だと警察で2番だと支局で、みたいな。よくわかんない暗号で操作できた。

宮崎 いま思ったらよかったですよね。「あ、鳴りませんでした」って言える。

吉永 あとは「(返信できる)電話が近くにありませんでした」とか。でも宮崎さんの時代って携帯あったんじゃないですか。

宮崎 あ、でもね、地下に潜るとつながらない。今はね、幸か不幸かどこでもつながっちゃう(笑)。どこでも仕事せい、ということですよね。でも、これをどこでも仕事しないといけない、ととるか、あるいはどこでも仕事ができるんだ、ととるか。私たち何らかの問題意識をもってこの世界に入って来た人間からすると、誰だってなんだって発信できるんだ、と思うんです。

転職先は「メディア以外」

吉永 新聞社ってそういう感じで「24時間働けますか」っていうのが基本。多くの企業もそうだと思う。それがベーシックな働き方で、そういう価値観で物事を見てるんですよね。

 私は労働組合をやって、会社に戻ったんです。もともと50歳になったらやめようかな、というのがどっかにあったんで。辞めるんだったら辞めなきゃな、というのと同時に、このまま男性中心の会社の中に残ってそれなりの立場で何かしらやるんだろうけど、でも目の前でどんどん辞めていく記者たちが……メディアに行かないんですよ、最近は。毎日新聞を辞めて朝日新聞、とか。NHK辞めて日テレとか。そういう流れが昔はあったんだけど。

宮崎 コンサル会社に転職しました、とか、メーカーの広報とか。ジャーナリズムから離れちゃうんですよね。

吉永 悪いことではないと思う。ただ、やる気があって問題意識を持って頑張っている人に限って辞めていくので、人材の流出がすごいんですよ。それをどっかで受け止めないといけないな、というのは思っていました。何かできないか、と。でもこれは会社にいながら片手間でやることはきっと無理だ、と。私は仕事をやり出すとすごい集中しちゃうので。あと私だけ会社に残っていると、あんだけジェンダーだなんだといって労働組合で活動していたのに、あなた委員長辞めたらこれかい、と思われるなあと。自分の生き方としては違うと思った。なので、そういう人たちに声をかけて、新しいメディアをつくった方がいいんじゃないか、というところにつながりました。

見ごたえのある映画を多数上映する横川シネマさん。外観も素敵!レトロな街並みで、独特の存在感を放っています

なぜ今「生活ニュース」なのか

宮崎 吉永さんが他の方と一緒に立ち上げたのが「生活ニュースコモンズ」(以下「コモンズ」)。みなさんnoteってご存じでしょうか。SNSの一つで、いろんな人が写真や長文を投稿してシェアできるプラットフォームです。このコモンズのnoteが7月に立ち上がりました。もうちょっとでフォロワー1000人に届きますね。各地に散らばっている女性記者が書いてるんですね。東京だけじゃなくて、広島にもいるし、秋田魁新報を辞めた人もいる。それぞれの街で起きていることを取材に行って、書く。このメディアの特色はどんなところにありますか。

吉永 まずは、女性だけで作っているメディアという点ですね。紙ベースだと他にもありますけれど、女性だけで全て完結させる、というところはあまりないと思います。いわゆる「トタ」といって、今日あった出来事を今日伝えるような一般ニュースも含めてやっているメディアは、日本にはないと思う。あと、あえて生活ニュースコモンズと、名前につけている。コモンズというのは庭とかパークという意味があって、いろんな人が入ってこれますよ、という意味合いでつけている。その上で「生活ニュース」を表題につけて、そこをメインでやっていこう、というのは他にはないんじゃないでしょうか。

宮崎 そうですね。いま新聞テレビだけじゃなくって、YouTubeなどネットの世界にもいろんなメディアがありますが、「生活ニュース」というところにフォーカスしているのは珍しい。新聞を見て頂くと生活面、というのがだいたい中ほどにある。くらし面とも言う。高齢者の話だとか生活福祉の話とかが載っているページ。私も吉永さんも新聞社においてそのセクションにいた経験があります。社会面と何が違うかというと、私なりに感じていたのは日付。社会面では、いつどこで何が起きたか。瞬発力が問われる。

吉永 事件とか。火事とか。不祥事とかもやりますね。

宮崎 いわゆる事件が載るんですね。あとは珍しいこととか。こんなユニークな人がいるとか、こんな凄惨な事件が起きている、とか。ちょっと、非日常と捉えられそうなことも載る。大谷選手があんな偉業を成し遂げた、とか。社会面はちょっと遠くで起きているなという風に感じることもあるけど、生活面とかくらし面は、社会に流れている空気をつかみとるような記事が載る。華々しさやセンセーショナリズムはない。

吉永 昔は家庭面と言われたところです。中国新聞にもあると思います、全国紙にもある。そこの視点っていうのは、「昨日さ、ママ友から聞いたんだけどこういう話が出てるんですって」っていうこと。それを編集局で話し合う。「私、実は介護やってて、病院がこういう感じで変わってて、これどういうことだと思う?」とか。普通に生活をしていて、新聞記者としてじゃなくて、一人の人間として生活をしている中で「なんか怪しいぞ」とか、「何か変だぞ」とか。半径5m以内の話をしているとかじゃなくってね。「最近、あそこの公園の遊具がなくなってるよね、なんかおかしいよね、子供にとっていいの悪いの?」とか。そういう話題に端を発して、編集会議で話して、「調べて書いてみよう」「厚労省にも取材して」とか。そういうことをやるのが生活報道です。

宮崎 私も思い出したんですけど、高齢者施設でよだれかけ、前掛けを外す動きが進んでいるというようなことを取材しました。

吉永 誰かから聞いた、とかで?

宮崎 そうそう。介護施設とか。

吉永 ネタ元はじいちゃんとかそういう感じ。

政治家目線、官僚目線ではない「半径5m」の視点

宮崎 半径5m以内の話なんだけど、他の人も絶対に同じことを見ているんですね。その中で、ちょっと時代のターニングポイント的なこととか、今まで当たり前だったことができなくなる、とか。いっぱいいろんなことが起きてるんだけど、ここがマッチョな新聞社の文化の中では、例えば「派閥政治でこういうことが起きている」とか。そういうニュースになりがちです。

吉永 厚労省でこういう制度ができた、とか。まず制度から入っていく。現場じゃなくて政治家目線、官僚目線から入っていく。今の新聞社の主流のセクションはそういう見方、目線でニュースを追っていく傾向がある。

宮崎 発端が、我々の暮らし。ただそれだけの話なんだけど、それってみんなに関係する暮らしの、衣食住とかいろんなことに関係することなんだけど、ことさら、生活のケアとかを丸投げしがちな……皆さんがそうじゃないけど、そういう男性の幹部が編集権を握っている新聞社においては、このセクションはすごく軽んじられている。なんでか知らないけど。

吉永 理由はあります。多数派が男性なんです。多数派の男性が働きやすい、そうした人たちが構築してきた価値観があるんです。日本の政治もメディアも、全て男性しかいなかった。だから、そこで構築されてきたシステムの中で有利な人たち、マジョリティである男性の感覚や考え方が連なっていく。少数派の声はかき消されてしまう。

 最近問題だなと思うのが、マジョリティ側の意見を淡々と単純に、良いものとして伝えること。すごく危険だと思っている。両論併記だなんだとか言われるし、バランスがどうだっていうこと、聞きません? こんな立場の人がいるからこうした方がいいんじゃないか、マイノリティのためにこうした方がいいんじゃないか、ということに対して、「でも、それはマジョリティが納得するかな」とかっていう意見が声高に叫ばれる。

宮崎 「俺たちが納得するか」というフィルターを通さないといけない、というのがまかり通っていますよね、新聞社の中でも。

保育園と幼稚園の違いを知らない編集幹部

宮崎 彼らに生活者としての実感があるかは、非常にクエスチョンなんですよ。「保育園落ちた日本死ね!!」というブログが2016年に話題になりましたね。私が産休育休から復職した時のことでした。実際、保育園入るのってすごく難しい。でも驚愕したのは、局長たちが幼稚園と保育園の違いを知らなかったんですよ。そんな人たちが民主主義とかいってんの?って、驚愕した。

 だから局長室へ、保育園と幼稚園の違いをレクチャーしにいったんですよ。なんで女性社員がここまで保育園に子ども入れられないから困ってるか、とか。そういうこと言ってもみんな「ぽかーん」としてる。で、問題なのが、そこに面を並べている方々が男性ばかりというわけでもない。つまり、(管理職の)女性も、ある程度おじさんの価値観に自分が染まっていくしかないんですよね。これは私も反省しているところではある。そうするとやっぱり、いろんなものがこぼれ落ちていってるというのを、あの時に感じました。これじゃあやばい、と。

吉永 「そういう人たちが新聞作ってるんだ。だからか」、みたいな。一般の関心事とのギャップがあるんですよね。俺たち私たちが伝えたいもの、こういう話が出てるぞという伝え方が、今まで当たり前でした。そうじゃなくて本当は、「近所でこういうことが起きてる」とか、「テレビを見ていて変なことを言う人が多くなった」とか、そういう疑問に応える、そしてその声を政府や財界に届けるというのが私たちの仕事だし、「カバル・ラハリヤ」の人たちもそういう仕事をしている。映画の中でヒンドゥー教の若者が、刀振り回してるとか、牛さえ育てとけば幸福になれる、とか。原理主義的なことがインドで起きている。それに対して「あれ、変だよね? 一般の人からしたらおかしくない?」という感覚。「きな臭いよね?」とか、この感覚がすっごい大切なんです。

 男性主観的だったり中央集権的な考え方の人は、生活者の視点って、半径5m以内の他愛もないもの、みたいな勘違いをしてるけれど、実は、私たちの今ここで起きていること、生活の目線からくる疑問とかが、社会の兆候や変化を一番感じとりやすいところなんです。

有事の時に変わるのは私たちの生活

吉永 ちょっと話が変わりますが、いろんな問題が起きてますね。沖縄だと台湾有事とかガザの問題がある。有事的な問題が出てくるときは、じわじわじわっとくると思うんです。中央政権は何も言わないです。まず、変わりだすのは皆さんの生活ですよ。そして、それがものが言えなくなるとか。言っちゃいけない雰囲気になるとかね。だから、生活者の視点が大切だと思う。

 人々の声を届けるのがジャーナリズム。だから、コモンズは既存メディアに対するアンチテーゼです。こういうメディアもあるんだ、ということを伝える。それで「生活ニュース」という言葉をつけているんです。決して半径5mニュースじゃないんです。こういう問題があるんだということをみんなで認識して、この社会をどうしたらいいのかということを考える、そういうきっかけになるんじゃないかな、と。それって生活ニュースなんじゃないか、と思っている。

宮崎 実際映画の中で、燃えあがっている彼女たちも、一生活者の表情とかも出ている。生々しいのが彼女たちの夫の表情。「なにやってんの」みたいな冷笑している雰囲気もあった。理解はしてるんでしょうけど。彼女たちは、一人の生活者としてまず生活をやっていて、そこから湧き上がってくる違和感、問題意識をぶつけて、こういうツール(スマホ)を生かしてやっているという。そしてその再生数がどんどん伸びていく。このことが何を示しているかというと、そういうメディアが必要とされているから。

 何かしら、大手メディアがすくいあげられていないものがある。吉永さんが繰り返すように絶望感云々ではありません。大手のジャーナリズムでは届いていないことをやったりとか、良い補完関係、相乗効果があると思います。ただ、根っこにはジャーナリズムが必要なんだ、ということですね。民主主義が生きている場所にはジャーナリズムがあるんだ、というのはみんな共通して思っているはずのことなんですよ。

 ただ、なかなかサスティナブルじゃない。働き続けるのが難しい現実がある。何か新しいものを作っていって、ジャーナリズムを実践して行こうよ、という話だと思いました。

 コモンズをやってみて、毎日新聞の時とは違う影響力があると思う。小さいメディアだけど誰かに確実に刺さるメディアを作ってみて、手ごたえとしてはどうですか?

小さなメディアの可能性

吉永 全然違和感ないですね。大手を辞めて、もしかして取材できなくなるんじゃないかとか、記事が載らなくなるんじゃないか、とか。存在感がどうのこうの言われるのかなとか、自分も感じるかなと思ってたけど、ないです。むしろ自由になって。
 記者会見も今出られるんですよ。これは自分の手ごたえなんですが、埼玉県のトンデモ(?)虐待禁止条例改正案についてみなさんご存じですか。

宮崎 小学校3年生以下の子どもを家に残していたら虐待と言われるかも知れない、あれですね。

吉永 これはまさに子どもの問題だと思いますけど、取材に行ってきたんです。で、質問したんです。どういう背景であの条例ができたのか、知りたいわけです。とんでもない話なので。とんでもないことにはとんでもないという理念があるだろう、という記者としての勘があった。手を上げて、この改正案に影響を与えた有識者は誰ですか、お名前を答えてください、と言ったんです。その質問が際立ってたのか知りませんけど、その後TBSのラジオに呼ばれました。その翌日も呼ばれたんですね。

宮崎 生活ニュースコモンズの記者として、ですね。

吉永 そうです。巨大な組織とかオーソリティとかそういう問題ではなくて、一人のジャーナリストが、クリエイターが、どう感じてどう伝えていくか、ということがすごく通用する。それが、求められる時代だと思った。

宮崎 これはコモンズで丁寧に報じているので見てください。いろんなことが透けて見えます。

吉永 大手じゃなくても、その記者が何をどう切り取ってこの問題の背景に何があるかをきちっと取材することで、それは伝わる。昔からフリージャーナリストの方がやってますけれど、こういう小規模メディアであっても可能なのかな、と。

みんなでジャーナリズムを考える

宮崎 やっぱり、ジャーナリズムが提起するだけじゃなくて、社会みんなで良きジャーナリズムのあり方を議論することが大切だと思います。ジャニーズの問題や政治報道とか、どうなん?と、皆さんも思ってると思うんです。メディアやジャーナリズムについて、報じる側の私達だけではなく、必要としてくれている皆さんと、あるべき姿を考えられたらと思います。

吉永今、みなさん、なんかぞわぞわしません? この世の中。ちょっと変だなと思うことあるでしょう。それを、皆さんと共有しながらやっていくのがジャーナリズムです。ストップをかけるのはジャーナリズム、市民の皆さんと一緒にやっていくことなんです。その一つに、大手メディアはその特性上、権力との距離などから統制されがちなんです。戦時中も含め、過去も統制された歴史があります。だからダメだとかではない。大手メディアの中で大勢頑張っている人がいます、おかしなことがあれば抵抗している人がいます。皆さんと繋がりながら何かを変えていけるかもしれない、何かあってからでは遅いんです。

宮崎 ジャーナリズムのあり方を考えることは、社会のあり方を考えることです。よき社会に向けて何が足りないかを考えることそのものだと思うんですね。なので皆さん一緒に考えていって、本当に民主主義がちゃんと根付いている社会になるように向かって行ければと思っています。そのきっかけになるような素敵な映画だったと思います。

◆「燃えあがる女性記者たち」、横川シネマでの上映は11月21日まで。
http://yokogawa-cine.jugem.jp/?cid=1

横川シネマ支配人の溝口徹さん(左端)と。ありがとうございました!ぜひ劇場へ!

◆宮崎さんがコモンズの吉永記者と阿久沢記者にインタビューしたこちらの動画も合わせてどうぞ。

(おわり)