空襲の弾痕が残る橋、市民の力で保存へ 遺族招き、命日に集会

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戦争の記憶を伝える小さな橋が市民の力で保存されることになったよ

甲子園球場から阪神電車で一駅。鳴尾・武庫川女子大前駅から北東に延びた本郷学文筋に太平洋戦争の戦跡がある。道路の中央に水路が走っている。その水路には人や自転車が行き来する小さな橋が数本かかっている。南から4本目、鳴尾北小の正面にある橋の側壁に、数十個の丸い爆弾の痕跡が残る。1945年8月5日夜から6日朝にかけて、130機のB29が編隊を組んで飛来し、爆撃の限りを尽くした。弾痕はその「阪神大空襲」の時のものだ。

当時、周辺に川西航空機、昭和電極などの軍需工場が密集しており、狙い撃ちされたという。西宮市史によると、鳴尾村では16工場が壊滅、1市場、3病院が被災した。この空襲による村内の死者は188人、負傷者は235人にのぼった。

道路拡幅で、戦争遺構の橋に撤去の危機

昨年、この水路を暗渠化して道路を拡幅する市の計画が明らかになった。工事には、橋の撤去を伴う。

「橋をなくさないで」

地域の住民が動いた。今年1月、公民館で「西宮・鳴尾の戦跡を残そう 戦争写真パネル展」を開いた。手作りの橋の模型を展示し、来場者に橋への思いを付箋に書いてもらった。老若男女120人が訪れ、空襲の実写映像や戦争体験者の語りに触れた。イスラエルによる攻撃が続くパレスチナ・ガザ地区の子ども達の願いもパネルにして展示した。

手作りの橋の模型を前に、平和を祈って合唱する女性たち=兵庫県西宮市学文殿町

「よ〜生きていてくれたねえ、橋さん!」

「橋の欄干に、犠牲になられた方はもちろん、助かった方々の恐怖や78年の歳月などが染みついていました。よ〜生きていてくれたねえ……橋さん!ありがとう。今の世界の戦争と重なります。なんとしても戦争をやめさせたい!そのシンボルとしても、つつましく、そっと静かに、通り過ぎる人々の暮らしを78年の間、支えてきた橋を守りたいと思いました」(来場者アンケートより)

パネル展を開いた吉﨑恵美子さん(62)、元中学校教諭の原田孝一さん(74)らは、橋の保存を市に働きかけた。西宮市の堂村武史・市民局長は3月4日の市議会で「当該橋梁の欄干につきましては、児童生徒を含めた地域住民の方々にも御覧いただける平和学習の貴重な現物資料になり得るものと認識しております」と答弁。現在、近隣の学校施設や公園などへの移設保存の検討が進められている。

9年前の新聞記事を手がかりに

その最中に迎えた戦後79年目の8月5日、西宮市学文公民館で「鳴尾村誌を読み、戦争を語り継ぐ会」があり、筆者も参加した。2015年8月13日付の朝日新聞阪神版に、この橋のことを書いた筆者の署名記事が載っている。この記事を参照し保存運動が始まったと、この春、生活ニュースコモンズあてにメールをいただいていた。

記事では、1945年の阪神大空襲で、母・籌子さん(当時34)と妹・眞木子さん(同11)を亡くした能楽笛方の帆足正規さん=京都府宇治市=と現地を歩いている。きっかけは帆足さんから新聞社に届いた手紙だった。端正な文字で、「私も歳です。もうあと何回、当地を訪ねられるかわかりません。8月6日、ご一緒していただけませんか?」と書かれていた。灼熱の鳴尾を一緒に歩いた。

集会の会場には、阪神大空襲をはじめとしたパネルが並んでいた=兵庫県西宮市学文殿町

以下、記事から抜粋する。

「帆足さんは当時、村立中学(現県立鳴尾高校)2年。家族と村役場近くの自宅に居た」

「足を痛め、退院したばかりの妹の手をひき、母は『お先に』と走り出した。帆足さんは父と2人で祖母を抱え、田が広がる北西に走った。中学の宿直室に祖母を預け、母と妹を探したが見つからなかった」

「翌朝、中学から100㍍ほど東の橋の上で、7、8人が折り重なって死んでいた。中に見慣れた紺と白の矢がすりの防空頭巾が見えた。母だった。すぐ下に妹が横たわっていた」

「近くの病院に運んだ。医師は診断書に『即死、無苦痛』と書いた」

「寺で罹災者証明書をもらい、わらで編んだ遺体袋を受け取った。2人を一つの袋に入れ、口を閉じた。リヤカーで武庫川まで運び、木の台の上で焼いた。河原に咲いていた月見草が、唯一の手向けだった」

帆足さんは記事掲載の翌年に85歳で亡くなった。

「戦争は、人間らしい感情をなくすんだ」

集会で原田さんは、「新聞を読んだ朝、すぐ橋を見に行った。自分の散歩道だったのに、気にも止めてこなかった」と振り返った。「戦後79年が経ち、人が体験を語ることがだんだん少なくなってきた。戦争遺構などのモノもまた意図的に削られたり、なくされたりしていく。この橋を平和教材として活用していくことには諸手を挙げて賛同しようと思った」

話を聞きながら、筆者の脳裏に帆足さんが橋の上で語った言葉が蘇ってきた。

「今から思うとたまらないんだけど……遺体を焼いた時、悲しくなかったんです。戦争だから仕方がない、と。そう思ったことが年を経るごとに情けない。戦争は、人間らしい感情をなくすんだ」

集会には帆足さんの長男、真人さん(65)も参加した。

「この橋に限らず、どんなことでも風化してしまう。でも絶対にそれを許してはいけないと思います。地域の方々の声を集めていただいたことに感謝します」

父から伝え聞いた、空襲で亡くなった祖母のことを話す帆足真人さん=兵庫県西宮市学文殿町

3姉妹の戦争体験を冊子に

集会では、近くで幼少期を過ごした3姉妹の太平洋戦争時の体験談をまとめた小冊子が配られた。吉﨑さんが編集したものだ。語り手の3姉妹は長女きみこさん(87)、二女たまえさん(84)、三女さきこさん(80)。集会にはたまえさんとさきこさんが参加した。さきこさんが橋の写真を姉妹のグループLINEに送ったところ、きみこさんとたまえさんが戦争の記憶を次々に書き始めたという。

「それがものすごい量で。母や父からは戦争の話は結構聞いていたんだけれど、姉妹ではこれまでそんなに話をしてこなかった」(さきこさん)

さきこさんは橋の保存運動にも熱心に取り組んできた。「いま、世界中で戦争や内紛が起きている。人生が断ち切られる戦争は何とかして止めないといけない。子どもは子どもなりの記憶でいいから、大きな声でなくてもいいから、全国で声を上げていくことが必要です」と話した。

右から冊子を編集した吉﨑恵美子さん、さきこさん、たまえさん、表紙を描いた小川裕子さん

終戦決断で防げた40万人の死

 空襲による日本人死者は40万人超。原田さんは日本の空襲年表を手に、指摘した。

「1945年2月14日、近衛文麿の奏上を受けて天皇が終戦を決断していたら、大半の空襲はなく、40万人のほとんどは死ななかった。7月26日のポツダム宣言をすぐに受け入れていたら、新潟の長岡大空襲も、阪神大空襲も、広島、長崎への原爆投下もなかった。帆足さんの家族も死ななかった」

「戦争は始めるのは簡単だが、やめるのは難しい。空襲では女性や子どもが最も犠牲になった。そのことを今一度心に刻みたい」


小冊子「西宮市上鳴尾 三姉妹の戦争の記憶〜子どものころ 戦争があった〜」はA5判、カラー30ページ。1冊200円(送料別)。問い合わせは「西宮ピース」の吉﨑さん(090・9255・6438)へ。