沖縄県名護市の辺野古沖で今年3月、同志社国際高校の研修旅行の一環で生徒らが乗った船が転覆し、女子生徒1人と船長が死亡する事故が起きました。事故が起きた原因などについて文部科学省が調査を行い、その結果、教育基本法制定以来初めて、研修内容が同法に照らして「違反」と判断されました。このことがもたらす意味、影響について、大阪の公立中学校で今春まで社会科の教諭として勤めた上方平和教育研究所共同代表の平井美津子さんに寄稿をいただきました。
教育基本法14条2項違反に大きな疑問
沖縄県名護市の辺野古沖で研修旅行中に、同志社国際高校の子どもたちが乗った船が転覆し、子どもと船長の2人が死亡した事故を受け、5月22日、松本洋平文部科学相が調査結果を公表し、同校の辺野古学習について「教育基本法違反」と判断しました。
この事故は、学校の安全管理体制が厳しく問われるもので、あってはならないことでした。学校事故で子どもの命が奪われる事態が起きたことを重く受け止め、このようなことが二度とないようにしていくことは絶対に必要なことです。亡くなられた高校生の死を悼み、ご冥福を祈りたいと思います。
事故原因の究明は再発防止のために喫緊のものであり、同志社国際高校のみならず全国の学校が校外における学習において安全管理を見直すために必要なことです。今回、文科省が安全管理面で「著しく不適切」とした判断に異論はありません。

一方、文科省は同校の平和学習について、教育基本法14条2項の「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない」に違反すると判断しました。このことについては大きな疑問を感じます。
1)政治的中立性とはなにか?
戦後、平和教育はあらゆる学校で、教育の柱として行われてきました。教育基本法1条の2は教育の目的として、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」とあります。
今回、文科省は同志社国際高校の平和教育を14条2項違反としていますが、14条1項には「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない」とあります。良識ある公民として政治教育は必要であるとしたうえで、特定の政党を支持したり、それに反対したりすることはよくないと言っているのです。
では、辺野古における基地反対運動を学ばせることは、2項で特定の政党を支持することに当たるのでしょうか。
文科省の報告書によると、「事前及び事後の学習を含めて、様々な見解を十分に提示していたことが確認できず、特定の見方・考え方に偏った取扱い」「主たる目的として、きれいな海を見ることではなく、基地建設と、それに反対する人が対峙する現場を見ること」などを根拠に、「辺野古への移設工事に関する学習について、政治的活動を禁じる教育基本法14 条2項に反するものであったと考えられ、是正を図る必要がある」と結論づけています。
中高生が学ぶ社会科の教科書には必ずと言っていいほど、基地問題は記述されており、学習をしています。政府が新基地建設を推進しているのですから、政府見解を書くようにと指示されている教科書には、政府が米軍基地を認めていることを、日米安保条約を根拠に書いています。しかし、基地があるために住民たちが受けてきた事件や事故の被害については、「周辺住民の暮らしに様々な影響を及ぼしています」といった短い文章でしか記述されていないのです。これで、本当に住民たちの被害や基地を無くしてほしいという願いがわかるでしょうか。

だからこそ、沖縄で平和を学ぶならば、被害を受けている住民たちの声を聞くことが重要になってくるのではないかと思うのです。沖縄で目の前に広がる基地の広さを実感し、戦闘機の轟音を聞き、そこで声を上げる人たちの言葉に耳を傾けることこそ、良識ある公民として必要な政治教育であり、平和学習といえるでしょう。大人になってから学ぶことはなかなかできません。学校にいるからこそ学べることなのです。
人間は政治的な生き物です。すべての人が立場性を持っています。その意味において、厳密に政治的に中立な立場などありません。
辺野古基地についても様々な考えがあります。もちろん、教師が一方的な考えだけを押し付けるのは間違っています。しかし、基地建設を推進する政府の声とそれに反対をする住民の声では、その声の大きさはまったく違います。私たちの社会には、聞こうとしなければ聞こえない声、知ろうとしなければわからないことがたくさんあります。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故によって故郷を奪われ、避難生活を余儀なくされている人の声は私たちが耳を澄まさないと聞こえません。辺野古新基地に反対する人たちの声も同じでしょう。
子どもたちは強大な力を持つ側の主張は触れる機会が多い一方、虐げられ力を持たない人々の声に触れる機会はほとんどないと言っていいでしょう。だからこそ、教師が意識的に弱い立場にある人々の声を取り上げることは決して偏っているとは言えません。
また、教師が提示したことを提示した通りに鵜呑みにする子どもなんていません。子どもたちは、様々な人の声を聴き、意見に触れながら、自分なりの思考を持つようになっていきます。教師が与えた学習で子どもの思考が左右されるなどというのは、子どもを学びの主体性を持ったひとりの人間として考えていない表れです。
私もこれまで、中学生を沖縄への修学旅行に連れて行きました。嘉手納基地を高台にある道の駅から見学したとき、子どもたちはその広大さに驚き、戦闘機のあげる轟音に立ちすくみました。事前学習として、本土決戦のために捨て石にされ住民の多くが亡くなった沖縄戦に関してはもちろんのこと、米軍基地の約7割が沖縄に集中していること、そこで起きている米軍機の墜落事故や飲み水の汚染、女性への性暴力など、沖縄県民が被害にあってきた話を必ずします。
そこから、住民の目線に立って、「沖縄の人たちがどんな思いでこれまで生活してきたのだろう?」「沖縄の人たちにとっての願いは何だろう?」「自分たちの町にこんな基地があったらどうなんだろう?」と、考えていくのです。
しかし、こういう授業をやっても、「米軍基地は必要だ」と言う子どもはいます。「基地がないと日本が攻められた時に困る」と言う子どももいます。
それでいいのです。平和な社会をどうしたら実現できるかということを考える入り口に立つことが大切だからです。
2)教育を土足で踏みにじる行為に怒り
松本文科相は、5月26日の記者会見で平和教育の萎縮を生む恐れがあるのではという指摘に、「全くない。全国の学校が取り組む平和学習は萎縮することなく進めていただきたい」などと述べました。今回のことは、自校の平和教育が同じように文科省によって「違反」とされるかもしれないと、全国の学校を恐怖に陥れています。萎縮させるつもりはなかったと言うのは、まるでDV夫が暴力をふるっておきながら、怖がらせるつもりはなかったというのと同じではないかと思えます。
1947年に教育基本法ができて以来、この法律に基づいて教育内容が違反とされたことは一度もありません。それは、学校における教育に政治は極力干渉すべきではない、教育内容に踏み込むことには抑制的であるべきだという良識が働いていたからです。指導しなければならない事態が起きた場合にも各都道府県教委や市町村教委が指導してきたのです。今回、いくら死亡事故が起きたとはいえ、文科省が学校における教育内容に踏み込み、「教育基本法違反」と断定したことで、文科省そして政府は大きな一線を踏み越えたと言えるでしょう。このことが、先例となり、平和教育のみならず、政治的な問題にかかわる教育が萎縮させられる可能性は大いに考えられます。まさに教育を土足で踏みにじる行為です。
今回の文科省の動きに関して、自民党の文部科学部会などが,、4月中旬に連名で同志社国際高校の教育内容の徹底調査を求める提言を官邸に提出していたことが、朝日新聞の記事で判明しています。
与党の圧力があり、官邸が動き、文科省が調査し、この判断をしたと言えるでしょう。これこそ、教育基本法16条「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない」にある、「不当な支配」にあたるのではないでしょうか。
今回の文科省の判断は、新基地建設反対運動に楔を打ち込み弱体化させ、沖縄における平和学習を萎縮させ、沖縄叩き、平和学習叩きをしていく中で、辺野古新基地建設を強引に推進しようとする政府の姿勢の表れのように思えます。教育を政争の具にするようなことがあってはなりません。
3)平和な社会を形成する主権者を育てるために
高市早苗首相は衆議院議員になりたての頃、「私自身は(戦争の)当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりません」(1995年3月衆議院外務委員会)と国会で発言しました。首相になった今も、この考えは変わっていないのではないかと想像できます。
日本は戦後80年以上経った今も、戦争の問題を解決できていない現状があります。加害の歴史などさっさと忘れて、誇らしい栄光の歴史だけを教えればいいと思っている政治家たちもいます。「武力攻撃をされたときに米軍がいなければ守ってもらえない」「日米安保条約がある限り、基地は必要だ」とうそぶく政治家たちは枚挙にいとまがありません。
戦争の歴史を風化させたとき、戦争への道が始まります。原爆や沖縄戦だけではなく、戦争によって起きた様々な被害者の声に耳を傾けることが平和教育に求められています。そして、戦争の悲惨さを学ぶことによって、私たちが取るべき進路が見えてくるのではないでしょうか。
沖縄県平和祈念資料館の戦争展示の最後のところに、次の言葉が書かれています。
沖縄戦の実相にふれるたびに
戦争というものはこれほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはないと思うのです
このなまなましい体験の前ではいかなる人でも
戦争を肯定し美化することはできないはずです
戦争をおこすのは たしかに 人間です
しかし それ以上に戦争を許さない努力のできるのも
私たち 人間ではないでしょうか
戦後このかた 私たちはあらゆる戦争を憎み
平和な島を建設せねばと思いつづけてきました
これがあまりにも大きすぎた代償を払って得た
ゆずることのできない
私たちの信条なのです
沖縄に押し付けられている基地は、平和な島を建設する障壁以外の何物でもないでしょう。沖縄戦では県民の4人に1人が死んでいます。戦争さえなかったら、奪われることのなかった命です。だからこそ、沖縄戦を経験した県民たちは平和な島をと呼びかけ、声を上げてきたのです。そのことを教えることは決して、特定の政党の考えや特定の政党のやり方に反対したりすることを押し付けるものではありません。

私たち教師は、戦前の教育への反省をもとに、「教え子を再び戦場に送るな」と戦後の民主教育を作り上げてきました。
これまでも教科書検定をめぐる問題、教育基本法改正による愛国心の押し付け、教科としての道徳の復活など、さまざまな形で政府によって教育がおかしな方向に捻じ曲げられ、教育内容への介入などが行われてきました。それでも、教師たちは、子どもたちが社会を見つめる目を養い、自分たちが平和で民主的な社会の形成者であると自覚できるように、様々な工夫を凝らして、学習を推し進めてきたのです。
今を生きている子どもたちが政治的な問題を学び、考えることは公民として必要な教養です。それを否定するかのような今回の文科省の措置は、教師たちに政治的に対立がある問題を教えることに二の足を踏ませ、子どもたちが現代の課題を学ぶ機会を奪うことになりかねません。
子どもたちには学ぶ権利があります。学びの主体は子どもです。子どもたちは未来の主権者です。子どもたちには、平和のうちに生存する権利があります。
平和な社会を創っていくためには、平和の尊さを知り、その実現のために自分たちは何ができるかを考えられる力を持つことが必要なのです。沖縄に行くこと、沖縄で学ぶことは、まさしくその力をつけるために必要なことなのです。

