私たちは何を問われているのか 映画「燃えあがる女性記者たち」を見て①

記者名:

 ドキュメンタリー映画「燃えあがる女性記者たち」を見た。インドのカースト最下位「ダリット」の女性たちによる新聞社「カバル・ラハリヤ」の活動を追った、実に見応えのある映画だった。根深い社会問題に果敢に挑む女性記者たちの姿に感情移入する一方で、私は同じような行動が取れるだろうかと自問自答した。記者として、ジャーナリストとして、覚悟を問われているような気がしてならなかった。

「女性記者」をとりまくもの

 私は、大学を卒業後、地方紙に25年以上勤務してきた。その間、結婚して出産し、子どもたちを連れて転勤を繰り返した。「だから女性記者は」「母親だから時間に制約があって仕事できないでしょ」、そう陰口を叩かれたり、仕事を制限されたりするのが嫌で、日夜問わず、必死に仕事をしてきた。

 一方で、マスメディアという組織の中で自分を殺さざるを得ないことも多々あった。

 ネタを取りたいと政治家の後援会幹部と会食し、帰りのタクシーの中でずっと手を握られたことがある。「若い女性がいると場が和むから」と上司から地方議員との宴席に行くよう言われて、議員の横でずっとお酌をさせられたこともある。

「これが記者の仕事なのか」、悔しくて悲しくなっても、拒絶した後の取材先と上司の反応が怖くて嫌だと言えなかった。

「無かったこと」にしてきた自分の罪

 声を上げたのは、約10年前、後輩の女性記者が取材先からのセクハラがきっかけで心を病んだときだった。

 「先輩たちが通った道だから」と彼女が被害を我慢し続け、精神のバランスを崩したと知ったとき、私は初めて「無かったこと」にしてきた自分の罪深さに気づいた。問題と向き合おうと会社に是正を申し入れ、後輩たちに「ハラスメントを伴う取材は行かなくていい」「そんな取材先には抗議していいんだよ」と伝えた。

 情けないことはほかにもある。

担当したまちの定例会見で、市長に政策の不備を指摘した際、さらに追求する点があるにも関わらず、「そのへんにしとけ」と言わんばかりの周囲の空気に負けて、質問を終えたことがある。恥ずかしい話で、自分の弱さも非力さも痛いほど認識している。

 だからこそ、映画の中で「カバル・ラハリヤ」の女性記者たちがブレることなく、レイプや環境破壊、政治の右傾化といった重い課題と向き合い、丁寧に取材を積み重ねていく点に、心が揺さぶられた。

「燃えあがる女性記者たち」の一場面 (c) Black Ticket Films

市井の課題と対峙できているか

 彼女たちは大手メディアの肩書きや後ろ盾があるわけではない。身分への偏見も付きまとう。それでも、決して追求の手を緩めない。スマホを手に、男性ばかりの警察署にも政治家の事務所にも乗り込んでいく。朝から晩まで取材を続け、ネットサイトで情報を発信し、「これでいいのか」と世に問いかける。

次第に「カバル・ラハリヤ」は市民の信頼を得るようになり、比例してサイトの視聴回数を増やしていく。

 記者の1人が「頼りにしているよ ラハリヤ紙だけが唯一の希望なんだ」と街の人に声をかけられるシーンは、脳裏に焼き付いた。あなたたち日本の新聞記者は、こうした市井の課題と対峙できているのかと問いかけられているような気がした。それはある意味、公官庁などの公式発表に頼り、他社の動きに追随するがゆえに、横並びにならざるを得ないマスメディアの限界を示唆されているのかもしれないと感じた。

誰かの心に届くなら

 でも。こうしたマスメディアを含めジャーナリズムが弱体化すれば、権力の監視は緩み、社会は目指すべき方向性を見失う。平和の理念も崩れていく。そこにメスを入れ、だれもが生きやすい社会を築き続けることが報道の責任だとするなら、私は記者として、まだできることがあるのではと考えさせられた。

 映画の中で主任記者のミーラはこう語る。「ジャーナリズムは民主主義の源だ」と。

 組織の壁にぶち当たり、心が折れそうになることは多々ある。投げかけた言葉は社会で共鳴しているのだろうかと悩むこともある。

 でも、1人でもいい。誰かの心に届くなら、社会を少しでも動かせるなら、私は記事を書き続けたい。記者であることを、報道者であることを、諦めてはならないのだとこの映画から、そう教わった気がした。(空)