「ビキニ事件」から70年 核の被害を生き抜く人々を訪ねて―キノコ雲の下からみるマーシャル諸島①

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 核兵器を「非人道兵器」とし、開発から保有、使用の威嚇を含むすべての活動を禁止した核兵器禁止条約が22日、発効から4年となります。同条約は「Hibakusha」の耐えがたい苦しみに留意するとしており、核実験の使用や実験による被害を受けた人々への援助も規定した画期的な条約です。

 「Hibakusha」は日本の原爆被害者だけでなく、世界中にいます。米国が核実験を繰り返した、マーシャル諸島も甚大な核の被害を受けた国の1つです。

 本連載は、2024年3月にマーシャル諸島に渡航した記者とアクティビストのお2人(プロフィール詳細は下記参照)にご寄稿いただきました。島に暮らす人々とのふれあいから核被害を見つめる記事を、3回にわたってお届けします。

(写真はすべて2024年3月撮影)

野口英里子
共同通信社記者。2017年入社、19年4月から23年6月まで広島支局で被爆者や核兵器廃絶を目指す市民、研究者らを取材。22年6月にオーストリアの首都ウィーンで開かれた核兵器禁止条約(TPNW)第1回締約国会議の取材班にも加わった。現在は福岡支社編集部で警察を担当。

瀬戸麻由
 広島県呉市生まれ。 「核政策を知りたい広島若者有権者の会(カクワカ広島)」メンバー。学生時代にNGOピースボートの船旅で世界を3周する中で世界のヒバクシャと出会い、核問題に取り組み始めた。 22年6月の核兵器禁止条約の第1回締約国会議に参加した際に、マーシャル諸島をはじめ世界各地の核被害コミュニティから参加した同世代のアクティビストとの出会いをきっかけに、オンラインで各地の被害を学ぶ「世界のヒバクシャと出会うユースセッション」を立ち上げた。企画を続ける中で直接現地でさまざまな人に出会い、学びたいという気持ちが強まり、24年3月にマーシャル諸島に渡航。

 米国の原爆開発を率いた理論物理学者の生涯を描いた映画「オッペンハイマー」が日本で公開されると、「広島と長崎の原爆被害が十分に描かれていない」などと大きな議論が起こりました。

 米国の核開発という点で「描かれなかった」ものは他にもあります。その一つが、広島、長崎への原爆投下から1年もたたないうちに始まり、約12年間続いた太平洋・マーシャル諸島での原水爆実験です。

 映画では第2次大戦後、主人公のロバート・オッペンハイマー博士が米国、旧ソ連間で核開発競争が進展していくことに苦悩する様子が表されます。その陰で、マーシャル諸島の人々は先祖代々の土地を追われ、放射線によって身体を傷つけられ、生活の基盤である自然環境を侵されました。その影響は実験終了から60年以上経った今も続いています。

 世界中で2000回以上実施されたともいわれる核実験のほとんどは、マーシャル諸島

のような経済、政治の中心地から離れた「辺境」や先住民の土地で行われました。核兵器は軍事・防衛や国家間のパワーゲームの文脈から語られがちですが、根底には人種差別や植民地主義があり、私たちが日常的に出合う差別や偏見、搾取と地続きの問題だと言えます。

  1954年3月1日、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」の船員らが被災し日本社会に「ビキニ事件」として記憶された水爆実験からは70年が過ぎました。実験日の3月1日にマーシャル諸島の首都マジュロで催された記念式典に合わせて2024年3月、日本から記者や研究者、アクティビストらが現地に渡航しました。故郷ではない場所に「仮住まい」を続けるコミュニティ、病に苦しむヒバクシャ、正当な補償を得ようと知恵を絞る議員や政府職員、継承に取り組む若者たち―。日本から約4000kmも離れた地で生きる人々との交流の中で感じ、学んだことを3回に分けてお伝えします。

 1回目は、マーシャル諸島の歴史と核実験被害の概要を紹介します。

「太平洋の真珠」はかつて「日本」だった

 マーシャル諸島は太平洋に点在する29の環礁と5つの島からなる共和国です。青い海に白く細いサンゴ礁が連なる姿は「真珠の首飾り」と称されています。

 外務省HPの「マーシャル基礎データ」によると人口は約4万人(2022年、世界銀行調べ)。陸地面積は約180㎢(日本の0.05%)で、一見するととても小さな国ですが、排他的経済水域まで広げると約210万㎢にもなる「海洋国家」です。

 日本で暮らす多くの人たちにとって、マーシャル諸島は物理的にも心理的にも遠い国でしょう。しかし、実は歴史的にとても深いつながりがあります。大正から昭和の太平洋戦争末期にかけて約30年間、マーシャル諸島は「日本領」でした。

 始まりは1914年。日本は第1次世界大戦で敵国ドイツの領土だったマーシャル諸島など赤道以北の太平洋の島々(ミクロネシア地域)を占領しました。その後、休戦条約(ヴェルサイユ条約)に基づき、島々は「南洋群島」という名称で正式に日本の統治下に入りました。

 22年に行政機関「南洋庁」が発足し、本格的な統治がスタート。マーシャル諸島は南部のJaluit(ジャルート、当時はヤルート)環礁を拠点とする「ヤルート地区」とされ、日本各地からの移民と経済開発、日本語教育などを通じた「日本化」が進められます。

飛行機から撮影した首都マジュロの一部(野口撮影/共同通信社)

 41年12月8日に始まった太平洋戦争では、諸島各地に日本軍の施設が造られ、米軍による攻撃の標的に。激戦地となったジャルート環礁などの地域では、日本人だけではなくマーシャル人も離島への避難を強いられたり、命を落としたりしました。

 終戦から80年近くがたった今も、諸島内には大砲や軍事施設の遺構、不発弾が残っています。建物は老朽化が進み、住民は危険と隣り合わせで暮らしています。各環礁では、日本軍による占領が終わった日がLiberation Day (解放記念日)として祝われています。

 日本統治の痕跡は生活文化にも見られます。歩き回ることを意味する「チャンポ(散歩)」や、サンダルを意味する「ゾーリ(草履)」など、日本語由来の言葉が日常的に使われています。日本人とマーシャル人との間に生まれた子孫も多くいます。

広島原爆7000発分の核実験

 日本が敗戦し「解放」されたはずのマーシャル諸島は、今度は米国の統治の下、大国の核開発競争に巻き込まれていきました。広島、長崎への原爆投下から約7カ月後の1946年3月7日、米軍は北部のビキニ環礁から島民167人を強制移住させ、核実験場を建設。同年7月、戦後初の原爆実験を行いました。

ビキニ環礁で行われた核実験の写真。マジュロにあるビキニ環礁自治体のオフィスの廊下に飾られている。(野口撮影/共同通信社)

 47年、国連信託統治領として正式に施政権を握った米国は、エニウェトク環礁でも核実験を開始。2つの環礁での実験は58年まで続き、計67回に及びました。その威力を合計すると、広島に落とされた原爆約7000発分に相当すると言われています。54年3月1日にビキニ環礁で行われた水爆「ブラボー」の実験は最も強力で、爆発によって生じた放射性降下物は広範囲に飛散し、島民はもちろん、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」など周辺を航行していた多くの日本の漁船の乗組員も被ばくしました。

 86年、マーシャル諸島は正式に独立、米国とは「自由連合協定」に基づく同盟関係になりました。米国が引き続き軍事・安全保障の権限を持つ代わりに、財政・経済支援を行うというものです。

 核実験による損害に対し、1億5000万ドル規模の補償基金が創設されましたが、対象は核実験場だったビキニとエニウェトク、米国がブラボー実験の影響があったと認めたロンゲラップ、ウトリックの計4環礁のみ。マーシャル諸島側はより広範囲に被害が及んだとして補償の拡充を求めていますが、米国は基金の設置をもって補償問題は「完全決着」とする協定の条項を根拠に応じていません。 

 マーシャル国民はビザなしで米国に渡航できます。このため、仕事や教育、医療環境が十分ではない母国を離れる人が後を絶ちません。気候変動がさらにその動きを促進させているとの指摘もあります。食生活の欧米化による肥満や糖尿病の増加も深刻です。

 第2の都市・クワジェリン環礁は米軍による占領後、核実験が行われていた頃はその「前線基地」として、60年代ごろからはミサイル実験に利用されてきました。基地が置かれた本島や、米国から放たれたミサイルの着弾地点に選ばれた島の住民らは環礁内のイバイ島への移住を強いられました。

第2の脅威

 マーシャル諸島は今、核に続く「第2の脅威」にさらされています。地球温暖化です。同国の平均海抜は約2m。海面上昇によって将来的に「故郷が水没するのではないか」と懸念されています。高潮も激しくなり、土地の浸食も報告されています。

ビキニアン・コミュニティが移住したマジュロ環礁エジット島の、外海に面した海岸。海の変化により浸食が進むが、資金不足のため堤防建設は滞っている。(野口撮影/共同通信社)

 エニウェトク環礁北部にある放射性廃棄物の最終処分場、通称「ルニット・ドーム」は、マーシャル諸島が背負う「二重の脅威」を象徴するものです。ドームは1970年代、水爆実験によってできたクレーターに汚染土や作業着などを捨て、コンクリートで蓋をしました。建設から数十年たち、老朽化したコンクリートにはひびが確認されています。海面上昇と高潮が重なり、汚染物質が漏れ出る、あるいはすでに漏れ出ているのではないかと危惧されています。米本土にあるネバダ実験場の汚染物質が持ち込まれた疑惑も報じられています。

 エニウェトク住民はビキニとは異なり、南部に限り帰還を果たしました。しかし、取り戻したはずの故郷での暮らしは危険と隣合わせの、以前とは異なるものになってしまいました。

(ここまでの執筆は野口が担当しました)

言語・文化・生活

 マーシャル諸島の主要言語はマーシャル語と英語。式典の進行や、ラジオ放送、新聞紙面など、2つの言語が登場する場面が多くあります。独特のハーモニーを重ねていく歌や、各地域の伝統的な踊り、情感をこめた詩の朗読など、短い滞在期間の中でも、この国で大切にされている文化の一片に触れることができました。

 首都のマジュロでも、まして離島地域では、水はとても貴重です。生活用水は雨水がたよりで、各家庭に貯水タンクがあります。食事の中心は魚と、タロイモやパンの実。ココナッツジュースやヤシの木の樹液「ジャカロ」のジュースもよく飲まれています。米国からの輸入食品も多く流通し、スパムやスナック菓子がスーパーにたくさん並んでいます。

3月1日の夜に披露された、アイルック環礁の女性たちによるダンスパフォーマンス。

核実験の人々への影響

 先述のように、核実験によって影響を受けた地域は米国がその被害を認める4つの環礁のみならず、広範に及びます。環礁ごとに受けた影響や異なり、経験したことは人それぞれですが、今回の渡航でご縁をいただくことが多かったビキニ環礁・ロンゲラップ環礁について記載します。

ビキニ環礁

 ビキニというと水着をイメージする人が多いかもしれませんが、本来はマーシャル語の言葉で、たくさんのココヤシが生えていることを意味する「ビキニ」と名前のついた環礁です。マーシャル諸島最初の核実験場となり、1946年7月に実験が開始されました。先述のとおり米国は住民たちを強制移住させましたが、移住先での暮らしは充分な食料のない厳しいものでした。ロンゲリック環礁、キリ島などわずか2年半で3度の集団移住を余儀なくされています。

 54年3月1日にはビキニ環礁で最大規模の水爆実験ブラボー作戦が決行され、実験場になったビキニ環礁のみならず、周辺地域にも放射性降下物による汚染が広がりました。68年に米大統領名義でのビキニ環礁の「安全宣言」が出されましたが、除染が十分でなかったことが明らかになり、78年に再閉鎖へ。80年近く経った現在も住民の帰島はかなっていません。

ロンゲラップ環礁

 ビキニ環礁から180km離れたロンゲラップ環礁も、ブラボー実験による放射性降下物「死の灰」が降り注ぎ、大きな影響を受けました。米軍は、実験を強行すると周辺地域も被害を受けることを予見していましたが、住民たちへの事前警告はありませんでした。脱毛や下痢などの放射線被ばくの急性症状があらわれ、実験後2日が経ってからようやく、米軍が全住民82名に避難を促します。

 そして、米軍は被ばくが人体に与える影響についてデータを収集する対象として、避難したロンゲラップの人々を調査し始めたのです。この調査は「プロジェクト4.1」と名付けられました。1957年には汚染の残留を確認しながらも住民らを帰島させ、その後も追跡調査を継続していました。帰島後も甲状腺異常などの健康被害が増え、85年に国際環境NGOグリーンピースの協力を得て住民たちが自主的に集団避難を決行。米国による除染は環礁のごく一部にとどまっており、いまも再居住の目処は立っていません。

渡航時にお話を伺ったビキニ環礁の首長 トミー・チボック氏(中央)と瀬戸(右)。「故郷」であるビキニ環礁には一度だけ訪れたことがあると話してくれた。

被害者救済と反核運動

 ブラボー実験後、「第五福竜丸」の被ばくは日本国内でも大きな話題となり、原水爆禁止を呼びかける大きな運動のうねりが生まれました。同時期のマーシャル諸島では、実験からわずか数週間で、被害を訴え核実験の停止を求める請願が起草され、実験翌月には国連にこの請願が提出されています。このような国際社会への発信は、1963年の​​部分的核実験禁止条約(PTBT)締結に向けた運動の先駆けとなりました。70年代には日本での原水爆禁止世界大会でマーシャル諸島からの参加者が登壇し、その後も日本の運動との交流は続いています。

 2000年代に入ってマーシャル諸島初のヒバクシャ組織「ERUB」が結成され、14年にはマーシャル諸島政府が9つの核保有国を相手取って国際司法裁判所(ICJ)に提訴するなど、被害者を救済し、核実験や核兵器そのものを廃絶するための動きは、マーシャル諸島でも起こり続けています。22年にオーストリアのウィーンで開かれた核兵器禁止条約第1回締約国会議には、マーシャル諸島にルーツを持つ若者たちの姿もありました。同条約の中心に「Hibakusha」の存在が置かれたことは、マーシャル諸島の人々を含む多くの当事者たちが声を上げ続けてきた歴史の上に成り立つのです。

3月1日の核被害者追悼式典の会場にて、ロンゲラップ環礁のサバイバーのお2人(最前列左から4,5人目)と、現地で活動する学生団体の皆さんと。

(ここまでの執筆は瀬戸が担当しました)

 次回からは、実際にマーシャル諸島を訪れて野口と瀬戸がどんなことを感じたのか、島の人々のことばも交えながらお伝えします。

<主な参考文献>
・竹峰 誠一郎著(2015)『マーシャル諸島 終わりなき核被害を生きる』新泉社
・石森大知、丹羽典生編(2019) 『太平洋諸島の歴史を知るための60章』明石書店

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