新聞記事の「復興美談」に抱く違和感

記者名:
@生活ニュースコモンズ2023

東日本大震災の避難者はまだ2万9000人いるんだって。原発問題もあるし、震災は終わったとは言えない

 新聞社で働きながら、嫌になること。その一つが大災害が起きた1年後、2年後、5年後などの節目を報じる紙面づくりだ。例えばきょう、13年の節目を迎えた東日本大震災を振り返る報道。多くの犠牲者を生み、人々の営みを奪った東日本大震災を忘れてはいけないと思うし、5年たち、10年たち、その地で暮らしていた人たちの「今」を伝えるのは、災害を風化させないという意味で大切なことだと思う。

 嫌だと思うのは、その節目の紙面づくりで必ず「復興」を象徴するような「被災者が前向きに頑張っている話を探せ」と言われることだ。

「何かいい話を探せ」

 新聞社が大災害発生から〇〇年といった節目の日に作る特集紙面は、たいてい、災害そのものを振り返り、今の被災地がどうなっているかを報じる本記原稿と言われるもの、そしてサイド記事と言われる、読み物、課題を整理した記事などで構成される。この読み物でよく描かれるのが被害を乗り越えて頑張っている被災地の人たちの「美談」だ。これが不要だというわけではない。取材していて自然とそういう話題と出会い、紹介したいと思うことはもちろんある。ただ、そこに固執し、「何かいい話を探せ」と言われることに違和感がある。

重なる自分の震災体験 心の復興は簡単じゃない

 私は大学生の時、自宅があった関西で阪神・淡路大震災を体験した。地震で家の中のあらゆるものはひっくり返り、床が割れた食器やガラスが散乱して、足の踏み場もない状態だった。幸い家族は無事だったが、一人暮らしをしていた大学の友人と高校時代の友人が亡くなった。家が全壊し、長らく避難所で生活していた知人、友人も多くいた。何かせずにはいられず、大学の仲間たちとボランティア活動をした。被害がひどかった地域で、全壊した家屋のがれきの撤去作業を手伝っていると、がれきの中から子どもが砂遊びに使うおもちゃのスコップとバケツが出てきたことがあった。ここで暮らしていたであろう子どもたちの日常が一瞬にして奪われたのだ、そう思うと、その場から動けなくなった。毎日がそんな繰り返しだった。その後しばらくたって、自宅のライフラインは元通りになり、休校となった大学も再開し、日常は少しずつ取り戻されたかのように見えた。

 でも、気持ちはいつまでも晴れなかった。友人が亡くなったのに、なぜ自分は生きているのかと大学に行くのがつらく、足を引きずるようにして通学した。母は大事にしていた食器がすべて割れてしまい、その後何年も、食器を買いそろえることができなかった。震災から数年後、大阪の友人宅に泊まりに行った際、夜、友人の父親が電気を消さずに寝ていて、理由を聞くと「震災があってから、怖くて、電気を消して寝られなくなった」という。「立ち直れずにいるのは自分だけじゃないんだ」と思い、少しほっとした。

東日本大震災直後の現地取材も、自分の経験がオーバーラップしそうで、取材班に自ら手を挙げることができなかった。

あの日を克服できる理由が見当たらない

 だから紙面で「復興」という文字を見ると、「簡単に言うなよ」と思ってしまう。「そんなにたやすくないよ」って。再整備が進み、関西の街に震災の痕跡を見つけることは難しくなった。だが、30年近く経っても、私は何かあるごとに震災があったあの日に引き戻されてしまう。もうそれは、不可抗力で、どれだけ月日が流れようと無理なのだと思う。あの日を克服できる理由が見当たらない。

 震災を節目で振り返り、被災地で前向きに頑張っている人たちの姿を報じるのは大切なことだし、その記事を見て誰かが勇気づけられることも事実だと思う。でも、その一方で、災害から立ち直れず、身動きが取れないままでいる人がいることにも思いをはせてほしい。

 心の復興はそんなに簡単じゃない。それがわかっているから、災害の節目に書く記事を型にはまった美談で片づけてはならないと自分に言い聞かせている。1月17日と3月11日は毎年、私がその原点に返る日だ。(空)

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