「私たちはどう生きるのか、そして、伝えていくのか」 JR福知山線脱線事故から20年 11月3日に都内で講演会

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「あなたのことを大切に思っているよ」と伝えたい人はいますか?

乗客106人と運転士が死亡し、562人が負傷した兵庫県尼崎市のJR福知山線脱線事故から来年で20年になる。事故車両の2両目に乗り合わせて重傷を負ったデザイナーの小椋聡さん(55)=兵庫県多可町=は11月3日、東京都内で「わたしたちはどう生きるのか」と題した講演会を開く。今回、小椋さんの呼びかけで、1両目に乗車していた福田裕子さん(40)=兵庫県宝塚市=と、東日本大震災で家族や同級生らを亡くした宮城県石巻市の只野哲也さん(25)が登壇し、対談することになった。

小椋さんは、事故から20年という歳月を「事故を通じて得た教訓や、感じてきた大切なことを、どう次に伝えていくか強く意識する段階に入った」と感じている。

小椋さんと福田さんは、同じ事故で負傷した当事者同士、以前から面識があった。しかし、只野さんとは全くの初対面。
脱線事故と東日本大震災……。
そもそも、なぜ小椋さんは、只野さんに声を掛けたのだろうか。

小椋さんのこれまでの歩みを振り返ると共に、事故の経験を通じて伝えたいメッセージについて考える。

卵のパックが潰れていくかのようだった 

事故のあった現場=兵庫県尼崎市で、2015年5月1日撮影

2005年4月25日午前9時18分。兵庫県尼崎市のJR福知山線塚口駅〜尼崎駅間で、上り快速列車(7両編成)が、制限速度・時速70キロの右カーブに時速約116キロで進入。カーブを曲がりきれず、1両目が左へ転倒するように脱線し、続いて2〜5両目も脱線。1両目は線路東側にあるマンション1階の機械式駐車場に入り込む形で衝突、2両目もマンション側壁の柱に衝突するなどして、大破した。特に、2両目の死者数が57人と最も多かった。
※参考:航空・鉄道事故調査委員会(現・運輸安全委員会)「鉄道事故調査報告書

小椋さんは、当時住んでいた兵庫県西宮市の自宅から、大阪市北区にある会社に向かっていたところだった。いつもと同じ、2両目後方の座席に座り、眠っていた。

目を覚ましたのは、車体がガタガタと揺れ始めた時。次の瞬間、小椋さんを含む乗客全員が、ものすごい勢いで空中に飛ばされていったという。

車体は、「まるで、プラスチック製の卵パックが、ぐちゃぐちゃに握り潰されていくようだった」。
ほんの数秒の出来事だった。

小椋さんが空き缶を使って作った模型。「くの字」に曲がった2両目を表現した。=小椋聡さん提供

2両目は、マンションにぶつかった衝撃で「くの字」に折れ曲がった。車両の前方部分は天井部から側面まで大きく裂け、後方部分は押し潰された状態になった。小椋さんは、その車両の中で、たくさんの乗客が積み重なった「人の山」に右足が挟まれた状態で、逆さまにぶら下がった。右足骨折や全身打撲の重傷を負った。

助かった自分にできること

2両目に乗っていた小椋聡さん=兵庫県多可町で、2024年9月26日撮影

事故直後から小椋さんは、取材を受けたり、負傷者と家族の体験手記をまとめた書籍『JR福知山線脱線事故: 2005年4月25日の記憶 あの日を忘れない 』を編集・出版したりするなどして、主体的に事故のことを発信してきた。「助かった自分にできることをしたい」との思いからだ。

遺族からの要望を受けて、犠牲となった乗客が最期に乗っていた場所を探す活動にも力を入れた。事故で車両の外に投げ出され、遺体が見つかった場所と遺品のあった場所が異なるなど、乗車位置どころか、乗車車両すら分からない人がいた。

遺族と協力しながら、負傷者の目撃証言を集めた。「当時、他の大規模事故でも、遺族と負傷者が共に集まる活動なんて前例がなかった」と振り返る。活動が実り、希望する遺族全員の乗車車両が判明。中には乗車していた位置まで特定できた遺族もいた。

航空・鉄道事故調査委員会(現・運輸安全委員会)が2007年に公表した「鉄道事故調査報告書」によると、現在も14人(死亡4人、負傷者10人)が乗車車両不明とされている。

現在、小椋さんは仕事の傍ら、JR西を含む公共交通機関やメディアの勉強会、一般向けの講演会などで、事故体験から知り得た「いのち」や「生きること」の大切さについて話す活動を続けている。

しかし、時間の経過と共に世代が若返り、「事故のことをほんまに知らんのや」と思うことも増えてきた。JR西日本でも、事故後に入社してきた社員が3分の2以上を占めてきているといい、「20年という節目に、何もしないことは考えられなかった」。

転機となった10年展

木村さんとの出会い

事故から9年となる2014年、今回の講演会へと続く出来事があった。東京都のフリーライター、木村奈緒さん(36)との出会いだ。

アクリル画『眼窩之記憶』=小椋聡さん提供

きっかけは、木村さんがたまたまテレビで視聴していた一本のドキュメンタリー映画。映画では、小椋さんが事故直後から、事故の時に目にした乗客の姿や事故車両の内部などを、絵に描いたり、空き缶を使った模型を作ったりして、事故の記憶を残そうとしていることが紹介されていた。

映画の中で、特に木村さんの目を引いたのが、アクリル画『眼窩之記憶(がんかのきおく)』(サイズ:縦約180センチ、横約95センチ)。絵の中にいる、メガネをかけたスーツ姿の男性は、小椋さん本人。その周囲に描いた、怪我を負った乗客のほとんどは、助けることができなかった。

メガネをかけたスーツ姿の男性=『眼窩之記憶』より

鉄道利用者の多い東京でも、脱線事故は人ごとではないはずだ。しかし、東京では既に事故が忘れられているような気がした。映画に衝撃を受けた木村さんに、「東京で、小椋さんの絵や模型を通して、事故について考える場所を作りたい」という思いが芽生えたという。フリーランスで働く小椋さんのHPから連絡先を調べて、ためらいながらもメールを送った。

「事故車両の中の様子が初めてわかった」

木村さんが企画した10年展=皆藤将撮影

事故から10年目にあたる2015年4月、小椋さんらの協力を得て、木村さんは都内で、「わたしたちの JR 福知山線脱線事故—事故から 10 年(通称:10年展)」と題した展覧会を開いた。

小椋さんは、『眼窩之記憶』などを初めて一般に公開した。絵は元々、取材に来る記者や、JR西の関係者に向けて、事故の様子を正確に伝えたいと描いたものだったという。「何度、事故の惨状を伝えても、きちんと伝わっていない」と感じていたからだ。「遺族の方々の気持ちを思うと、とても一般に向けては公開できない」と思っていたが、木村さんの熱意に背中を押された。

小椋さんが作った事故車両の模型も初めて一般に公開された。「脱線事故は、人の尊厳を全てなぎ倒すような形で、人の命を奪ったことを知ってほしい」と小椋さんは話す。=水本博之撮影

事故当時、美術大学3回生で、1両目で負傷した福田裕子さんも協力してくれ、卒業制作の一環で描いたという絵画『此の岸より』も展示した。

福田さんが描いた絵画「此の岸より」=水本博之撮影

福田さんは、仏教の言葉で、亡くなった人たちの世界を意味する「彼岸(ひがん)」と、生きている人たちの悩みの多い現実世界を意味する「此岸(しがん)」を絵で表現したという。

小椋さん、福田さんの絵が展示された=皆藤将撮影

5日間の会期中、会場には約500人が訪れた。

来場者は、「車両の外のことはニュースで知っていたが、絵を通じて車内の様子を初めて知った」「鉄道業は安全が何よりも大事である。人の命を運んでいる事を忘れてはならない」「風化させないよう後輩達に語りついでいく」などと感想を寄せてくれたという。

木村さんと、小椋さんは、手応えを感じた。

「誰かが語る脱線事故」があってもいい

10年展を企画した木村奈緒さん=皆藤将撮影

忘れられない場面がある。木村さんが自ら会場に立って、来場者に脱線事故のことを熱心に語っていた姿だ。小椋さんは、胸を打たれたという。

事故当時、木村さんは17歳の高校生。身内や知人が巻き込まれた事故でもない、全くの「第三者」だ。だが木村さんは、新聞記事や書籍などで事故のことを調べたり、小椋さんから話を聞いたり、事故現場にも足を運んだりするなどして、理解を深めた。

「事故の経験や学んだことを、どう後世に伝えていくか」と考えていた小椋さんにとって、当事者ではない木村さんが語る脱線事故は、新鮮だった。「第三者」が、事故を語る意義を痛感したという。

「これまでは、2両目で助かった僕が、事故のことを語るのは当然だと思っていた。むしろ、当事者である僕に喋らせてほしいと思っていた」
しかし、自分も含めた当事者たちは、いずれいなくなっていく。
「経験をした僕ではない、誰かが語る脱線事故は、むしろ必要なことなのだと初めて分かった」

「大切な誰か」が側にいることの意味を伝える

決して、『語り』を聞いた人に、脱線事故のことを代わりに語る『語り部』になってほしいわけではない。

最近、大切な人の手を握りましたか?
最近、大切な人に「あなたのことを大切に思っている」ということを伝えましたか?

小椋さんが、事故の経験から問うのは、そうした身近な幸せだ。「脱線事故のことが、その人の人生の中で、大切なこととして残ってくれたら」と願う。事故で一瞬にして、当たり前の日常が断ち切られてしまった人たちの姿をずっと見てきた。大切な人が側にいることは、当たり前のことではない。

「脱線事故が、大切な誰かと一緒にいることの意味に気づくきっかけとなれば、それだけで経験を語った意義があったと思います」

それは小椋さん自身、ずっと支えてきてくれた妻の朋子さん(56)の大切さを、噛み締めてきた20年でもあったからだ。

脱線事故が「自分の一部」に

小椋さんと、妻の朋子さん(右)=兵庫県多可町で、2024年9月26日撮影

朋子さんは事故当時から、事故に関わる記事や資料を集めたり、小椋さんの取材にも付き添ったり、事故に関する多くの取り組みを隣で支えてきた。「脱線事故は一緒に体験することはできなかったけど、その後のことは、彼とすべて共有したい」という思いがあったからだ。

しかし、喪失体験を負った遺族の話を聞いたりしているうちに、徐々に被害者と同じようなストレスを抱えてしまう「代理受傷(二次受傷)」を負ってしまう。それにより、活動的になる「躁状態」と、気分が落ち込む「うつ状態」を繰り返す双極性障害を発症した。

引き金となったのは、亡くなった乗客の「最期の乗車位置」を探す活動を一緒にしていた女性が、自死したことだった。女性は、事故で13年連れ添ったパートナーを亡くしていた。活動の中で、朋子さんは、女性を懸命に支えようとしていただけに、喪失感は大きかった。

食事も満足に摂れなくなり、体重は激減。「消えてしまいたい」と、電気もつけない部屋で、布団にくるまって一日を過ごした。閉鎖病棟に入院したこともあった。その間に小椋さんは、「朋子をひとりにできない」と、会社を辞めた。「先のことは見えなかった」が、朋子さんの側にいながら、自宅で仕事ができるフリーランスになった。事故から3年経った頃のことだ。

2013年には、自然豊かな兵庫県・多可町の古民家を購入し、移住。現在はそこで、フリーランスのデザイナーとして働きながら、民泊&レンタルスペース「古民家空間 kotonoha」なども運営している。

来客があると、小椋さん(右)と朋子さんは、2人でキッチンに立つことも多いという。=兵庫県多可町で、2024年9月26日撮影

朋子さんの病気は、医師から「現在の医学では治らない病気」と言われ、今も服薬と、月1回の神戸市までの通院が必要だ。

「脱線事故と決別したい」と思ったことがなかったわけではない。しかし、小椋さんも朋子さんも口を揃えるのは、「もう脱線事故が、自分の一部になってしまった」ということだ。脱線事故によって、多くの悲しみと苦労を背負ってきた。しかし、「脱線事故がなかった人生」というのも、想像ができない。「そう思えるまでに、こうした状況を受け入れていくには、やはり時間が必要だった」と振り返る。

助かったのは奇跡だったのか

只野哲也さん=兵庫県多可町で、2024年9月26日撮影

事故から20年。この節目に、事故の当事者ではない『第三者』を交えた様々な人たちと、『生きること』について考える機会を作りたいと考えた。

そうした中、どうしても意見を交わしてみたい人がいた。東日本大震災で被災した宮城県石巻市の大川小学校で、津波にのまれながらも生き残った只野哲也さん(25)だ。

被災した大川小学校。この日は、只野さんを含む卒業生らが企画した追悼行事が開かれた=宮城県石巻市で、2024年9月7日撮影

2011年3月11日の東日本大震災発災時、海から約3.7キロの内陸にあり、すぐ側を北上川が流れる石巻市立大川小学校(現:石巻市震災遺構大川小学校)を、高さ約8.6メートルの津波が襲った。学校にいた児童と教員らは、約50分間、校庭に待機した後、北上川にかかる橋のたもとにある、「三角地帯」と呼ばれる交差点を目指して避難するところで、津波に遭ったという。児童108人中70人・教員10人が死亡、4人の児童が今も行方不明となっている。
※参考:小さな命の意味を考える会

今年、小椋さんの目に、ある記事の見出しが飛び込んできた。

奇跡の少年じゃない 生き残った重圧

只野さんは震災当時、大川小の5年生。同級生らと避難する中、津波にのまれながらも助かった児童4人のうちの一人だ。だが、祖父、母、同じ大川小3年生だった妹を失う。
記事では、只野さんの震災後からの歩みと、「奇跡の少年」と呼ばれることに葛藤を抱えたことなどがつづられていた。

「僕と同じだ。この青年に会って話をしてみたい」

かつての苦悩した自分の姿と重なった。
小椋さんも事故後、幾度となく、犠牲者が多かった2両目から助かったことを「奇跡だ」と言われてきた。だが小椋さんは長年、「奇跡」という言葉に、複雑な思いを抱いてきた。

2両目後方に乗っていた小椋さん。事故で車両が潰れていく衝撃の中、後方から前方に、大きく投げ飛ばされたという。
「前方にいた乗客の誰かが、代わりに犠牲になってくれたのです。僕達が押し潰してしまった。そうでなければ、骨折だけで生きられたはずがない」

思いのある場所」に花を手向けたい

脱線事故現場を訪れた只野哲也さん(右)と話す小椋さん=兵庫県尼崎市で、2024年9月25日撮影

小椋さんの思いに応える形で、只野さんとの交流が始まった。7月には、小椋さんが石巻市の大川小学校を初めて訪れ、只野さんから案内を受けた。

9月には只野さんが、兵庫県尼崎市の脱線事故現場を初めて訪問。只野さんは、JR西日本が事故現場周辺に整備した慰霊施設「祈りの杜」を訪れ、小椋さんから、事故についての説明を受けた。

年齢は二回り以上も違うが、お互いを知る度に、さまざまな共通点に気づき、共鳴せずにはいられない。そのひとつが、「花を手向ける場所」だ。

只野さんが、大川小学校を訪れた小椋さん、妻の朋子さん、木村奈緒さん(左から順に)に、津波に遭った子供達が見つかった場所を案内した=Team大川 未来を拓くネットワーク提供

石巻市が震災遺構として整備した大川小には、敷地を入ってすぐの校舎前に、献花台がある。しかし、只野さんが教えてくれた。

「僕は、献花する場所が違うと思います。泥の中から、亡くなったほとんどの子供達が出てきたところが、花を手向ける場所だと思います」

小椋さんらが、子供達が見つかった場所に手向けた花束=Team大川 未来を拓くネットワーク提供

そういって、津波にあった子供達の多くが津波にのまれ、泥に埋まって見つかった場所に案内してくれた。現在の大川震災伝承館の裏手で、裏山の側に位置する場所。献花台はない。

小椋さんは、「まさにこの場所で、多くの子供達が亡くなった。事情を知らない人が訪れただけでは、きっと誰もその場所を知ることはないだろう」。

「献花する場所が違う」と話す只野さんは、自分と似ていると思った。

脱線事故の慰霊施設「祈りの杜」=兵庫県尼崎市で、2024年9月25日撮影

「祈りの杜」にも、献花台がある。しかし小椋さんは、そこには花を手向けない。いつも花を置くのは、自分があの時いた、「くの字」に曲がった2両目があった場所だ。マンションの線路側に位置し、当時はマンション住民の自転車置き場だったが、現在は一般の立ち入りが禁止されている。

小椋さんの思いは、遺族が「あの人の最期を知りたい」と、乗車位置探しに奔走していた姿と重なる。「亡くなった場所」にこだわる、只野さんの気持ちが理解できた。

「僕にとっての事故現場は、やっぱり2両目があった場所なんです。僕はここに、花を置きたい」

『いのち』を真ん中に

只野さんは現在、任意団体「Team大川 未来を拓くネットワーク」の代表として活動する。

震災直後から解体が検討されていた校舎の、保存活動に向けて結成したチームが前身で、大川小の卒業生らが中心となり、2022年に結成した団体だ。伝承活動のほか、市の災害危険区域に指定されている大川小学校周辺地区に、誰もが安心して帰ってくることができるようにと、行事の企画や拠点づくりなど「新しいコミュニティづくり」にも取り組んでいる。

大切にしていることのひとつに、「子どものいのちを真ん中に」という言葉がある。

この日は、小椋さんの自宅に集まって講演会の打ち合わせをした。=兵庫県多可町で、2024年9月26日撮影

脱線事故の現場を訪れた只野さん。
「脱線事故の原因には、安全よりも効率性、利便性みたいなものが先行してしまったが故のヒューマンエラーがあった。命が真ん中でなくなってしまうことの怖さを改めて知った」

それは津波が来る前に、安全な場所に避難できる機会はたくさんあったはずだったのに、子供らの命を守れなかった大川小にも通じるところがあると感じた。

「『いのちを真ん中に』というのは、災害だけではなく、事故や人災などの緊急対応の時には必要なこと。その大切さを伝えていかなければいけない」

講演会で小椋さんらは、「脱線事故や震災で、私たちそれぞれが得た学びや感じたことを皆さんと共有し、生きること、命の大切さを考える機会にしたい」と話している。

講演会「わたしたちはどう生きるのか」

講演会「わたしたちはどう生きるのか」は、11月3日午後1時(開場午後0時15分)から、東京都千代田区の日比谷図書文化館 日比谷コンベンションホール(大ホール)で開かれる。参加無料。定員200人。

第一部では、小椋さん、只野さんの他、10年展にも参加した福田裕子さんも登壇し、それぞれが体験を語る。第二部では、3人で公開対談を行う予定。対談での聞き手は、10年展を企画した木村奈緒さんが務める。

来年4月には、講演会や10年展での対談などを収録した書籍も発刊する予定。問い合わせは、実行委員会の小椋さんまで。電話(090-7965-9964)、メールはinfo@kotono-design.com

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