長崎への原爆投下時、爆心地から12km圏内にいたにもかかわらず、国の指定地域外として被害を認められていない「被爆体験者」ら44人が、長崎市と長崎県に被爆者健康手帳の交付を求めた裁判で長崎地裁(松永晋介裁判長)は9日、原告のうち15人(うち2人は故人)への交付を認める「一部勝訴」の判決を言い渡しました。原告が求めていた「全員救済」はかないませんでした。
手帳交付が認められたのは原爆投下当時、長崎市の東部に位置する旧矢上村、旧古賀村、旧戸石村(以下東長崎地区)にいた人達です。それ以外の、手帳不交付の決定が取り消されなかった29人には原告団長の岩永千代子さん(88)や山内武さん(81)も含まれていました。判決後、裁判所の前で「一部勝訴」の懸垂幕を掲げた原告らは表情堅く「このように原告を分断する判決が出るとは……」と話しました。
判決は、1999年実施の「平成11年度原子爆弾被爆未指定地域証言調査」で東長崎地区に「黒い雨が降った」との証言が多く「降雨の蓋然性が高い」と判断。一方で、原告らが証拠として挙げた、原爆投下40日後に米国のマンハッタン調査団が、原爆が広島、長崎の住民に与えた原爆の影響を、医学的側面と残留放射線量から調査した1946年の報告書(以下、マンハッタン調査報告書)については、「東長崎地区以外の被爆地点またはその周辺に放射性降下物が降下した相当程度の蓋然性は認められない」と退けました。
広島高裁判決を後退させた内容
報告集会で、長崎「被爆体験者」訴訟と広島「黒い雨」訴訟の双方で原告弁護団を務める足立修一弁護士は「広島高裁判決をかなり後退させた内容」と話しました。
広島では2021年7月、米軍による原爆投下後に降り注いだ「黒い雨」を浴びた住民たちが訴えた「『黒い雨』訴訟」で、原告全員を被爆者と認める広島高裁判決が確定しました。この判決によって援護対象を広げる新基準が策定され、爆心地から30km離れた地点にいた人でも、雨や灰などの体験をしていて、かつ一定の種類の疾病を患っていれば「原爆放射線の影響を受けるような事情の下にある」として、手帳が交付されることとなったのです。
今回、長崎地裁の判決は同じ被爆者援護法1条3項を根拠としながら、その解釈を変えました。
1条3項は被爆者の定義について、「原子爆弾が投下された際又はその後において、身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」としています。広島高裁判決ではこれを「原爆の放射線による健康被害が生ずる可能性が否定できない者」としました。実際に、黒い雨が降ったか降らないかは問いませんでした。
放射性降下物を「黒い雨」に限定
しかし長崎地裁は「原爆由来の放射性降下物が降ったという相当程度の蓋然性が認められる者」と法の解釈を変更し、放射性降下物を「黒い雨」に限定しました。そして雨が降ったという立証責任を原告らに求めるようにも読めます。
中鋪美香弁護士は「広島高裁は原告の立証責任を転換もしくは軽減させた。しかし長崎地裁は、福岡高裁の判決に近く、<原子爆弾の放射能の影響を受けるような可能性がある事情の下にあったという事実が存在することについて、高度の蓋然性を原告が証明する必要がある>という判断をし、その判断においては<合理的のみならず一定の科学的根拠を伴う必要がある>としました。原告の立証責任について厳しい内容です」。
足立弁護士は、「広島と長崎で起こった現象は同じですよ。上空で原子爆弾が炸裂して、広島は爆心地から約40km先まで影響ありと認めたわけです。手帳も出た。ですけど長崎は12kmの範囲ですら、放射性降下物がばらまかれた事実をなかったことにしようとしている。あり得ない判決です」と話しました。
足立弁護士はまた、「原告の間に分断を持ち込む、極めて悪質な判決」とも述べました。
「マンハッタン調査団報告書を採用すれば、雲仙、島原半島まで(被爆地域と)認めることになる。だから困ると、厚生労働省が内心思っていることを判決は代弁したのではないか」
内部被ばくを過小評価した「お粗末な判決」
手帳交付が認められなかった岩永千代子さんは、判決言い渡し後、しばらく動くことができませんでした。
「支援者や弁護士から勝訴か敗訴しかないと聞かされていたが、私は5%は判らないと思っていた。その5%が起きてしまったわね」と話しました。
報告集会ではこう語りました。
「放射性降下物による内部被ばくは真実そのもの。それが過小評価され、判事の恣意的な判断で一蹴された。これはあってはいけないと思いますね。判決は事実に基づいたものではない。お粗末ですね」
岩永さんは8月9日の岸田文雄首相との面会の場に、降下した灰による被爆や水を飲んだことによる内部被ばくを示す3枚の絵を持ち込みました。その中には、今回認められなかった長崎市の北西部にある旧時津町の絵もあります。田や畑の肥料にと父親が爆心地から持ち帰った灰の中から、おはじきやビー玉を探して遊んでいた姉妹は、次々にがんに倒れました。姉妹の祖父は一夜にして腹がふくれて亡くなったといいます。
「内部被ばくをもたらすような放射線の影響は、東長崎だけでなく、全地域でみられた。爆心地から半径12kmはあくまで目安です。判事には事実と向き合い、もうすこし謙虚に立ち止まっていく姿勢を求めたいと思いますね。私達は結果にひるまない。放射性微粒子と内部被ばくが関連していることを訴えていく。日本の平和に対する礎として、ほんの小さな灯りですけれども、平和を灯していくために(核兵器の被害を)告発する取り組みをひるまずにがんばります」
なぜ長崎は12kmでも分断してしまうのか
山内武さんは「15人が救済されたことはよかった。しかし、東長崎だけかと本当に残念でなりません。なぜ広島は40km近くまで被爆地となっているのに、長崎は12kmでも分断してしまうのか。本当に残念です。体が続く限りこの問題を闘っていきたい」と話しました。
控訴について、岩永さんは「原告団の代表ですから、みんなの意見を聞いて判断することになりますが、私個人としては控訴したいです」と話しました。
原告が分断されたことについては、「不合理で差別そのもの」と断じ、「広島と長崎の判断の違いを、憲法14条、法の下の平等に違反する、と岸田首相に申し上げました。面会で首相が言った合理的な解決に期待しているところです。疑わしくは救うんだという姿勢でいてほしい」と求めました。
原爆投下時、生後2ヶ月だった末永ミツ子さん(79)は、今回認められた旧戸石村の出身。2007年と11年、被爆体験者計67人が、被爆者手帳を求めた裁判には、他の親族も加わっていました(19年までに最高裁で敗訴が確定)。今回は、すぐ上の姉と2人だけの参加です。
「自分が(手帳を)認められたからよかったと喜ぶことは決してできない。すでに亡くなった原告もいる。たった44人になったんだから、原告全員を認めてほしい。その上で、長崎の被爆体験者全員を救済してほしい」と語りました。
原告団は判決を受け、10日夕、長崎市、長崎県に手帳交付を働きかける予定です。