長崎にも「黒い雨」が降った 原爆被爆未指定地域の証言調査 129件の記録を読む

記者名:

「黒い雨」は長崎にも降ったの? 原爆被爆未指定地域の証言を読んだよ

長崎への原爆投下時、爆心地から12km圏内にいたにもかかわらず、国の指定地域外として被害を認められていない「被爆体験者」ら44人が、長崎市と長崎県に被爆者健康手帳の交付を求めている裁判は、長崎地裁で9月9日に判決が言い渡される予定です。

裁判の争点の一つが、「被爆体験者」らのいた地域に原爆由来の放射性物質を含む「黒い雨」が降ったかどうか。専門家会議が長崎県・市に提出した報告書と、国の見解は真っ二つに分かれています。

生活ニュースコモンズは専門家会議が「黒い雨が降った」と結論づける根拠となった被爆体験者らの手記、全129件を情報公開請求で入手しました。精読の上、記述が具体的な15件を抜粋し、掲載します。

【そもそも】長崎への原爆投下と「黒い雨」認定

長崎で被爆地に指定されているのは南北12km、東西7kmのエリアです(地図中、ピンクと青のエリア)。エリアの外にいた人は爆心地から12km圏内でも、「被爆者」とは区別され、医療費補助や各種手当を受けられる「被爆者健康手帳」の交付から漏れていました

  出典:小山美砂『「黒い雨」訴訟』(集英社新書、2022年)

一方、広島では2021年7月、米軍による原爆投下後に降り注いだ「黒い雨」を浴びた住民たちが訴えた「『黒い雨』訴訟」で、原告全員を被爆者に認める広島高裁判決が確定。この判決によって援護対象を広げる新基準が策定され、爆心地から30km離れた地点にいた人でも、雨や灰などの体験をしていて、かつ一定の種類の疾病を患っていれば「原爆放射線の影響を受けるような事情の下にある」として、手帳が交付されることとなりました。

しかし、新基準は長崎に適用されませんでした。

広島と長崎の差は不合意ではないか——。

京都大学複合原子力科学研究所の五十嵐康人教授ら学識者、弁護士でつくる「長崎の黒い雨等に関する専門家会議」は2022年7月、報告書を取りまとめました。

報告書では1999年実施の「平成11年度原子爆弾被爆未指定地域証言調査」に寄せられた「被爆体験者」らの手記7025件を分析。黒い雨、雨に関する記述129件、灰などの降下物に関する記述が1874件、内部被爆に関する記述が31件見つかりました。その上で、「特定の日時・場所(地域)において、相当数の方が、雨や灰が降ったと証言しており、集まった全ての証言メモから総合的に判断して、黒い雨等が降ったと認定することが可能と考える」と結論づけています。

長崎県と長崎市は同月、厚生労働省に報告書を手渡し、「被爆体験者」の救済を求める要望書を提出しました。

しかし、厚労省は2024年6月、放射線降下物を含む「黒い雨」について、「客観的事実として捉えることはできない」と結論づけました。国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館が所蔵する別の体験記を調査し、疫学や統計学の専門家3人に評価を依頼したものです。さらに今年7月、厚労省は「アメリカの国立公文書館など米国内の3カ所で長崎への原爆投下後の放射性物質を含む降下物についての文献を探したが、黒い雨の拡散状況がわかる資料は見つからなかった」と発表しました。

「雨」「黒い雨」の記述を読む

それでは、「平成11年度原子爆弾被爆未指定地域証言調査」を読んでいきましょう。

被爆体験者らの手記に「雨」「黒い雨」の記述があった地域は、地図上に(★)を付けました。

旧仮名遣いは新仮名遣いに改めました。明らかな誤字・脱字は修正してあります。

雨に関する記述、放射能による健康影響と思われる記述にはハイライトを施しました。

質問項目(平成11年度=1999年度=原子爆弾被爆未指定地域証言調査)
◎原爆が投下された時いた場所
◎原爆が投下された時だれと一緒にいましたか。
◎原爆が投下された時どこで何をしていましたか。また、その時の周囲のありさまをくわしく書いてください。
◎原爆が投下された後のその日の行動を書いてください。
◎原爆が投下されてから今日まで健康への不安などがあったら書いてください。

【茂木町】

黒くスミのような雨が口の中に

【証言1=女性】

原爆が投下された時いた場所

茂木町 本郷

原爆が投下された時だれと一緒にいましたか。

母と私と弟が2人、となりの壕の●●さんの、おばあちゃん、お嫁さん、その子供たち、買い出しに来ていたお兄さんがいた。

原爆が投下された時どこで何をしていましたか。また、その時の周囲のありさまをくわしく書いてください。

8月9日、その日は警戒警報が鳴ったので、自宅より歩いて10分くらいの山手に登った所に神社があり、その横に防空壕があり、壕の周りはびわ畑でした。私たち親子4人は中に居ましたが、警報が解除になったので外に出ていた。その時、B29が低空で爆音を立てて飛んできた(びわの木の間から見えた)。

母と私で早く壕に入った方がいいよと話して居たら、30分ぐらい前に浦上方面から来ましたと言って、色の白いお兄さんが食糧の買い出しに見えてた。お兄さんが「まだ大丈夫でしょ」と言った。その時、ピカーと光を感じ、私はうろうろしていた。その後すぐ何か破裂したようなパチーというようなドンと音がした瞬間、爆風により倒れて背中を生暖かい風が吹き抜けてしばらくこのままの状態でいたら母が大きな声で私の名を呼んだので顔を上げて見たら、下の弟に覆い被さるようにして抱いていた。上の弟も壕の入口付近で倒れてました。すぐ壕の中に入りじっとしていたら、隣の壕のおばあちゃんが無事で良かったと言ってくれて、こちらにおいでと勧められて(となりの方が立って歩ける大きな壕で)入れていただきました。それから「大丈夫ですよ」と言っていたお兄さんはどうしたかと思っていたら、隣の壕の中に居ました。怖い思いをしました。

毎年祈念日が近づくと思い出します。

原爆が投下された後のその日の行動を書いてください。

壕の中に長い時間いたと思う。恐ろしくてじっとしていました。又、父が生きているのか心配でした。何も食べ物がないので母が家に帰りかけた時、近所の人が「あんたの家は戸障子が表側から裏側まですっぽりないよ」と教えてくれた。家は爆風の通り道に当たっていたらしい。母は私たちを残して急いで帰り、長い時間戻ってきませんでした。やっとジャガイモとカボチャの煮たのを持ってきて食べさせてくれました。心配していた父も無事でした。父は役場勤めで県庁出張のため、県庁まで約2里の道を木場を通って歩いて爆風に遭い、父と一緒に歩いていた人も、下の段の畑に落ちたそうです。薄暗くなりかけた頃、だれかが外で呼ぶ声がして外に出てみたら、びっくりしました。空が赤黒く燃えていて、だんだんこちらに迫ってくるような気がした。長いこと空を眺めていたら雨が降り出して、よく見たら黒くスミのような雨。口をあんぐり開けていたので、雨が口の中に入ったのをよく覚えている。

原爆が投下されてから今日まで健康への不安などがあったら書いてください。

子供の頃は、食糧不足で貧血で弱っていました。現在は自立神経失調で乗り物酔い、午前中はボウーっとしている。夕方近くなって元気が出る。また昭和24年生まれの独身の妹が難病(悪性貧血)で、17年前にかかり、今は月に2度ほど通院している。妹のことも心配で色々考えて眠れない時もある。姉妹でどちらが先に逝くかわからないので不安です。父もガンで、母は7年前に白血病で死亡している。

黒い雨を浴び、シャツも黒くよごれた

【証言2=性別記載なし】

◎原爆が投下された時いた場所

茂木町 太田尾名

原爆が投下された時だれと一緒にいましたか。

航空隊中嶋隊予科練生数名と海軍川崎隊の下士官の近くで作業していました

原爆が投下された時どこで何をしていましたか。また、その時の周囲のありさまをくわしく書いてください。

茂木町太田名●●の南の方向の海岸で奉仕作業をしていました。当日は学校には松ヤニを取りに行く予定で登校していました。学校では●●先生に連れられて奉仕作業に行きました。着いたところは、中嶋隊、川崎隊合同建設中の砲台でした。私は砲台より手前50mぐらい離れたところで、道の補修のため石運びをしていました。その時、予科練生の方が、「あっ敵の飛行機だ」と声にし、びっくりして見る間もなく青白色の光が数秒光り、熱を感じあつかったです。まもなく爆風がものすごい音と聞こえ、物や木の葉が飛んできてこわかったです。作業は続けて、午後1時過ぎごろと思いますけど、雨が降ってきました。私は石運びをしていて気づくと黒い雨でした。手もよごれ、着ていたシャツも黒く汚れました。予科練生の方が広島に落ちた新型爆弾の時も黒い雨が降ったそうだよ、黒い雨は長崎も一緒だと知らせてくれました。

原爆が投下された後のその日の行動を書いてください。

砲台の奉仕作業が済み、家に帰り着いたのは午後3時過ぎでした。家では雨戸が外れたり、物が落ちていました。4時ごろより川崎隊のトラック運転手の●●曹長さんが、いま長崎駅より荷物を積んできたので、箒を持ってきてトラックの掃除を手伝ってよと言って、私の家に来られましたので、私は箒を持って手伝いに行き、またびっくりしました。荷物にほこりがたくさんつき、はたいてもなかなか落ちなかったです。トラックの荷台のほこりが箒ではいてもなかなか落ちず、川より水を汲み上げ、トラックの荷台を洗いました。

原爆が投下されてから今日まで健康への不安などがあったら書いてください

川崎隊のトラックの掃除は私は毎日のように手伝いをしていましたので、8月9日もいつものように手伝いました。今日、体に不調を感じるようになって、あの時のトラックのほこりは原子爆弾被爆を受けたほこりではと思い、毎日不安です。

 【日見村】

髪が抜け始め、貧血になった

【証言3=女性】

原爆が投下された時いた場所

日見村 宿名

原爆が投下された時だれと一緒にいましたか。

母と私、弟3人と一緒でした(3人目の末の弟は海で泳いでいました)

原爆が投下された時どこで何をしていましたか。また、その時の周囲のありさまをくわしく書いてください。

昼近く、空襲が解除され、私は長女でしたので、昼食の用意のため外でまきを炊いていました。その時、突然轟音と共に青白い光と風を感じ、家の中に駆け込みました。家の中は紙や品物が散らかっていました。あまり光と音が強かったので、(家の)前が海でしたから艦砲射撃と思い、防空壕の中にとりあえず兄弟、母と逃げ込みました。その中、庭に紙屑の燃えかすがたくさん落ちてきました。拾ってみると化学記号が書いてありました。ほとんどの黒く燃えた紙はノートで、化学記号で埋まっていましたので、医大がやられたと思いました。しばらくすると黒っぽい雨が降り、太陽がくもって夕日のようでした。その中、落下傘がふわふわと飛んで来ました。又、爆弾が破裂するのではないかと生きた心地はしませんでした。

ちょうどその日は、学徒動員のバスが来なくて、学生の私は家に居ました。昼というのに真っくろく曇った真っ赤な太陽は何時までもそのままでした。

母は大豆や炒り豆など兄弟に分けて、海から敵が来るかもしれないからばらばらになっても逃げるようにと言われました。

その母は今は亡き人となっております。

原爆が投下された後のその日の行動を書いてください。

あまりにも光や音や風が強くて、てっきり艦砲射撃と思い込み、もうどうしようもないと思いました。

どこに行きようもなく、家の防空壕で過ごしました。ただし、母に、もし敵が上陸して来たら逃げるだけ逃げよと言われました。

原爆が投下されてから今日まで健康への不安などがあったら書いてください。

しばらくして髪の毛が抜け始めました。若い娘にとってはショックだったことを記憶しています。

健康な方でしたが貧血気味となり、原因がわからぬまま、その当時は大変不安でした。その頃、水道などなくて湧き水を生活用水に使用していましたので、汚染された放射能の水のためだったのかもしれないと、今は思います。貧血はかなり続いて低血圧でした。

【矢上村】

茶色の砂塵が降り積もり、黒い雨が

【証言4=男性】

原爆が投下された時いた場所

矢上村 町名

原爆が投下された時だれと一緒にいましたか。

母と妹2人

原爆が投下された時どこで何をしていましたか。また、その時の周囲のありさまをくわしく書いてください。

裏庭で鶏の世話をしていた時、上空に落下傘が3個、当方の普賢山へ流されるのを見たので、家に双眼鏡を取りに行きすぐ戻った。そして双眼鏡で落下傘を見た途端、強烈な光のため目をやられたと思い、家の中に逃げ込んだ。その時、爆風によって障子が皆倒され、その場に身を伏せた。しばらくしてから、隣の防空壕に入り約1時間くらい過ごしたが、一応家に帰った。家の奥にあった重いガラス戸も倒れて居た。

その後庭に出たら太陽が見えないくらい、黒煙が広がっていた。それから数時間後、茶色の砂塵が屋根に積もり、黒っぽい雨がパラパラと降ってきた。庭にも砂塵が積もり、紙類の燃えかすが降ってきたが、その中に三菱電機の領収証がはっきり見えたのが印象的でした。浦上で燃えて舞い上り、風に流されてきて文字が明瞭に見える状態には本当に驚きました。どっと来た衝撃波のため、周囲の家も皆、ガラス戸や障子が倒れて破損した所もありました。

原爆が投下された後のその日の行動を書いてください。

倒れたガラス戸や障子を建て付けて破損した所は修理にかかりましたが、その後は庭の掃除を行いました

原爆が投下されてから今日まで健康への不安などがあったら書いてください。

白血球、赤血球、ヘモグロビンは標準より少なく貧血気味です。

雨とともにごみのような紙切れが飛んできた

【証言5=男性】

原爆が投下された時いた場所

矢上村 平間名間の瀬

原爆が投下された時だれと一緒にいましたか。

兄、友人(●●)

原爆が投下された時どこで何をしていましたか。また、その時の周囲のありさまをくわしく書いてください。

蜂の子を取っていた。11時過ぎ、光がピカッと光りました。すぐに額を手で塞いで地面に伏せました。どかんとびっくりする大きな音がしました。家に戻りましたらガラス、また戸が外れて割れていました。そしておやつの塩ゆでじゃがいもなどが裏口の台所へ吹き飛んでいました。食べられなかった。しばらくしたら黒い空になり、雨とともにごみのような紙切れなどが飛んできました。もう恐ろしくて恐ろしくて大きな声で「お母さん」と呼んでいた。

原爆が投下された後のその日の行動を書いてください。

家に帰りましたら家にも爆弾が落ちたのかと思ってしまいました。その後壊れ物など手伝いました。近所も爆弾が落ちたのかと見て回りました。みんなの家もガラス戸など壊れ物を片付けたりしていた。

原爆が投下されてから今日まで健康への不安などがあったら書いてください。

不安ばかりです。風邪ばかり引きやすくなり病院通いばかりでした。ぜんそくがよく起こりました。小学4年ぐらいから入院の繰り返しです。昭和32年ごろ結核腫で入院しました。今までに約11回入院の繰り返し、勤務先の市役所税務課は30歳で退職しました。右目失明のため乱筆で失礼

市長へ

間の瀬自治会は西彼杵郡長与町より近いのに、原爆手帖等資格、また地域の指定がないのは理解に苦しみます。何回でも調整して厚生省に真実として認めてもらうようお願い申し上げます。

黒い雨と灰にまみれた作物を食べ続ける

【証言6=男性】

原爆が投下された時いた場所

矢上村 平間名

原爆が投下された時だれと一緒にいましたか。

弟、近所の●●君

原爆が投下された時どこで何をしていましたか。また、その時の周囲のありさまをくわしく書いてください。

当時私は矢上国民学校5年生でした。登校途中空襲警報になると帰宅するようになっていました。その日も8時30分頃警戒警報から空襲警報になったので帰宅するに至る。11時頃、自宅裏の丘の上に建ってアシナガバチの幼虫を河佐かなの釣りエサにするため取っていたのでした。3人共に!!

昔は周囲が静かでしたから、大村湾の上空よりB29のエンジン音が聞こえてきました。その時は警戒警報発令中でしたので、まさかと耳を疑いました。しかし、すぐに音が大きくなり、雲の切れ間の青空からB29が2機急降下してきて、みるみるうちに大きな機体となり目の上を通過し、三山の上空で三つのパラシュートが飛び出しました。そのうちの一つが爆発したのでした。一瞬目はくらみ見えなくなりました。その後15分ぐらいしてから、土砂降りの雨が10分ぐらいだったと思いますが降りました。二つ残ったパラシュートは風に流され東の方へと行き、又爆発するのではないかと大変な心配を大人達としていました。雨が止むと大人達は野仕事、子ども達は被害の片付けと夜まで大変でした。夕方頃から翌日以後は浦上方面から被爆した人たちが命からがら逃げてきたと言って、お茶を飲んだり水を飲んだり、ボロの布きれで傷の手当てをしたりして、諫早とか遠い人は沖縄県の人とか言っておられたようでした。被爆した人達の手当てをした人達はみんな入市被爆と同様な気がしてなりません。又、黒い雨と灰にまみれた水や野菜、果物を毎日食べ続けて来た事が不安でなりません。当時2歳だった妹は頭髪が抜け、病名もなく死亡しました。昭和21年、男でしたが死産でした。母がその子供を木の箱に納める時に「なんでこの子は真っ黒になって死んで生まれたとじゃろうか」と言ったことが今も耳に残っています。

原爆が投下された後のその日の行動を書いてください。

8月9日午前8時30分頃、矢上国民学校へ登校途中、現在の鶴の尾町付近で空襲警報のサイレンが鳴り、自宅に引き返す。10時40分頃より自宅裏の小高い丘でアシナガバチの巣を取る支度を弟、●●君と3人でしていた。まもなくすると、11時頃、B29の爆音が大村の上空よりかすかに聞こえてきた。この時間帯は警戒警報発令中であったので、まさか敵機とは思わなかった。耳をすまして上空を見ていると雲の切れ間の青いすき間からB29が銀色の機体を急降下させて三山の上空で三つのパラシュートが放出され、B29は2機とも南の方向へ行く。少し行った時、一発が光と共に爆発した。光で目がくらみ地べたに伏せて立ち上がった時、山の大木をゆすって大風のような風が北、それから家に行って見ると家の建具類は倒れ、ガラス類は割れ、めちゃめちゃになっていた。15分ぐらいした頃、急に暗くなり、土砂降りの雨が降ってきた。10分ぐらいだったと思う。雨が止むと空から三菱のマークがついた焼けかすみたいな灰がどんどん紙切れと一緒に飛んで来た。夕方まで片付けに追われていた。

原爆が投下されてから今日まで健康への不安などがあったら書いてください。

健康の不安は毎日あります。

大粒の黒い雨に、洋服が黒くぬれた

【証言7=女性】

原爆が投下された時いた場所

矢上村 町名

原爆が投下された時だれと一緒にいましたか。

長女と私、矢上村郵便局長の●●夫人、家の2階には当時三菱兵器に勤めていた運転手の●●夫人と洋裁を習いに来ていた●●さんがいました。

原爆が投下された時どこで何をしていましたか。また、その時の周囲のありさまをくわしく書いてください。

1階の畳の部屋で長女(当時2歳)のそばに居ました。出産後私は体調が悪かったので防空壕まで行きませんでした。ピカッと光を感じて間もなく爆風が来て家の西側のガラスが殆ど割れました。思わず子供と一緒に布団を頭からかぶっていました。家の中の様子はすすはらいをしたように、家中真っ黒に、畳の上もみなゴミが落ちていました

国道に出てみると西の方に煙が上がり、焼け残った紙切れが落ちてきました。拾ってみましたら病院のカルテだとすぐ判りました。白い布がフワッフワッと山の向こうに落ちていくのが見えました

外に立ってみていましたので、雨がパラッと降ってきました。大粒の黒い雨でした。洋服が黒くぬれていたので着替えました。その後、時が経つに従って長崎方面から矢上を通って国道を古賀方面へと逃げて行く人がだんだん多くなりました。家でもその夜は二階を借りていた兵器勤務の運転手が、兵器でケガをした人を連れてきてひと晩泊めました。

当時私の母も同居していましたが、その日母は町内の人と現川の山へ竹槍をつくるため竹を切りに行き、現川の山の中で光に逢いました。(母は昭和51年胃がんで死亡)。母は日赤看護出身でしたので、その後近所の開業医にけが人の手当てのため通っていました。母は原爆手帖は貰わないでおりました。

原爆が投下された後のその日の行動を書いてください。

子供がまだ幼いし、主人は出征していましたし、私自身も体調が弱いので、家で普通の暮らしをしていました。

原爆が投下されてから今日まで健康への不安などがあったら書いてください。

原爆との因果関係はわかりませんが、平成9年12月、胃がんの手術を受けました。体調は良かったり、悪かったり。再発・転移が心配です

妊娠5ヶ月の時、黒い雨を浴びる

【証言8=女性】

原爆が投下された時いた場所

矢上村

原爆が投下された時だれと一緒にいましたか。

原爆が投下された時どこで何をしていましたか。また、その時の周囲のありさまをくわしく書いてください。

8月9日は朝から母と2人で矢上村近くの林に松の木の油を取りに行っていました。とても暑い日でありましたが、いつも通りに作業をしておりました。すると突然とてつもない騒音が耳に響き、母も私も何が起こったのかわからないまま、地面に腹ばいになりました。私は恐ろしさと頭痛で顔を上げることができず、ずっとそのままの状態でした。それから1時間ぐらい経ったのでしょうか。空からぽつぽつと黒い雨が私達の頭上に降ってきたのです。いきなりの雨に母も私も何も体を覆う物もなく、ただただ家路を急ぐだけでした。しかし、折しも私は妊娠5ヶ月で長男を腹に宿していましたので必死でありました。家路の道がこんなに遠く感じたことは、あの時ほどありません。真っ暗な空からは燃え爛れたくずきれや紙くず等何もかもが花びらのように落ちてきて、私は歩くことがやっとでした。家に着くと家の内はめちゃめちゃで、雨戸もガラス戸も割れ、生きた心地はしませんでした。しばらくすると、原爆で負傷された人達が次々に来られましたが、私達はただ見守るばかりでした。しかし、あの情景は私達被爆者には一生忘れ得ぬ体験でありました。

原爆が投下された後のその日の行動を書いてください。

原爆投下の翌日、青年学校に行き、被爆された方々の看護の補助や、食糧・水の供給をお手伝いいたしました。また近所の●●さんとおっしゃる方も息子さん2人と父が長崎で被爆され、大やけどで戻られたので、私達は近所の方々と協力して看病しました。しかし、3人とも3日の内に亡くなられてしまったのです。その後のお葬式にもお悔やみに行ったのですが、一人残された奥さんの悲しみは見るに耐えがたかったことをよく覚えております。

原爆が投下されてから今日まで健康への不安などがあったら書いてください。

あれから54年経ち、母も夫も亡くなりました。あの時、妊娠5ヶ月だった息子も働いておりますが、若くに十二指腸潰瘍の手術で胃を半分削ったりと体が弱いようです。私はのどの痛み(扁桃腺)、膝の痛み、泌尿器系、神経痛などを長い間患っており、年とともに体力も衰え、症状は改善の余地がないようです。また医療費のことも気がかりであります

不安はつきませんが、毎日朝5時に起き、小鳥のさえずりを聴きながら、夫の仏壇に手を合わせられることに感謝しております。あとは世界が平和であることを願うばかりです。

熱が出て、歯ぐきから血の膿が

【証言9=女性】

原爆が投下された時いた場所

矢上村平野名 土手(開墾していた)

原爆が投下された時だれと一緒にいましたか。

先生と同級生といました

原爆が投下された時どこで何をしていましたか。また、その時の周囲のありさまをくわしく書いてください。

学校から開墾に行き、草取りをしていると、空から落下傘のようなものが飛んで来ていました。みんなで空を見ていると、ドーンと音がして爆風が吹いてきて、先生が伏せなさいと言われたので、みんな伏せました。すると先生が草を取って私達の体にかぶせて下さっていました。しばらくしてみんな大丈夫ですか、と言われて周囲を見るとお友達が飛ばされたと言って、顔の片方が赤くなっていました。

その時、空からは紙切れや燃えた灰がたくさん降って来ていました。とにかく早く山の方へ行こうと言われて山へ行く途中、空が真っ暗くなって大雨が降って来て、みんなびしょ濡れになって山へ行き、弁当を食べて雨が止むのを待って帰りました

途中紙切れや手紙みたいなのが飛んで来ました。拾おうとしたら先生からだめですと言われて拾いませんでした。

原爆が投下された後のその日の行動を書いてください。

帰る途中飛行機が飛んできていましたので、溝に入ったり、石垣にへばりついたりしながら家へ帰って行ったら、姉が心配して迎えに来てくれました。

家へ帰ったら、障子が飛ばされたり、妹も5歳でしたが、はだかで庭で遊んでいた時爆風で飛ばされていたと父から聞かされました。それからみんなで家の掃除をしました。

原爆が投下されてから今日まで健康への不安などがあったら書いてください。

原爆が投下された翌日より父は長崎へ亡くなった人達の手伝いに行き、帰ってくると汗と汚れた服を私が毎日洗濯していました。父と同じ事を私もしているんだと思いました

それからと言うと、私は熱が出たり、歯ぐきから血うみが出たり、耳の下のリンパ腺が腫れたりで、体がだるくてたまりませんでした

今でも入院退院の繰り返しで不安でたまりません。

【戸石村】

真っ黒な雨、昼なのに夕方のようだった

【証言10=女性】

原爆が投下された時いた場所

戸石村 里名

原爆が投下された時だれと一緒にいましたか。

友人3人

原爆が投下された時どこで何をしていましたか。また、その時の周囲のありさまをくわしく書いてください。

現在の大久保病院の近くの家の庭で友人3人で遊んでいたところ、突然ピカッとしてきて風がものすごい勢いで吹いてきました。何が起きたかと思い、自宅に帰り、急いで防空壕に行きました。

空襲が解除になったので帰宅して近所の人たちと外で話をしていると太陽が真っ赤に光を失った状態になり、長崎の方からは紙くずや真っ黒になった燃えかすや真っ黒な雨が降ってきて、辺りは真昼だったのですが、まるで夕方のようでした

父は警防団(消防団)だったのですぐに長崎の方へ一週間ぐらい通っていっていました。父は死体の除去作業をしていたので帰宅してきても食事も喉を通らない状態でした。

原爆が投下された後のその日の行動を書いてください。

危ないので家の中へいるように両親からきつく言われ、姉妹と一緒にその後はずっと家に居ました。

原爆が投下されてから今日まで健康への不安などがあったら書いてください。

28歳ぐらいから貧血がひどくなり、倒れることもあったので、長崎原爆病院に通院していましたが、48歳の時にさらにひどくなり、心臓病にもなり、長崎県立成人病センターに入院し、現在も通院しています

年をとるにつれて色んな病気が出てきているので、不安に思っています

原爆病院に通院していたとき、担当の先生から、「原爆にあわなかったか?」ということもよく聞かれました

雨が降り、ものすごい灰を浴びた

【証言11=女性】

原爆が投下された時いた場所

戸石村 牧島

原爆が投下された時だれと一緒にいましたか。

●●、●●、●●他、組の人たち

原爆が投下された時どこで何をしていましたか。また、その時の周囲のありさまをくわしく書いてください。

昭和20年8月9日、投下された当日、組の人達と山に松のヤニを取りにでかけて居た所、突然、稲妻のようなやけどでもしたような熱線をあびたのと同時に、熱い爆風により吹き倒れました。空を見るともくもくと原爆の雲が上昇しているのを見たその時の様子は木の子でも生えている様子であった。またたく間に東長崎の上空一帯はまっ暗となり太陽の姿も隠れて戻った。にわか雨のような通り雨が降り、その後茶色に変色して太陽の姿が火の玉でも落ちてくるかのように感じた。と同時にものすごーい灰を浴びたのを覚えております

原爆が投下された後のその日の行動を書いてください。

急いで家に帰ったら天井からゴミ、すすなどが落ちていたために、掃除をして、あとかたづけをしておりました。

原爆が投下されてから今日まで健康への不安などがあったら書いてください。

爆風を浴びているために体の不安はありました

【古賀村】

空がまっ暗になった後、黒い雨が降った

【証言12=男性】

原爆が投下された時いた場所

古賀村 中里

原爆が投下された時だれと一緒にいましたか。

●●(平野町で外科医として開業)と二、三人 柿の木に登っていた。

原爆が投下された時どこで何をしていましたか。また、その時の周囲のありさまをくわしく書いてください。

小生は原爆が投下された年に北高来郡古賀村立古賀小学校に入学。授業中でも良く空襲警報のサイレンが鳴りひびき防空ごうに先生に引率された近くの民家の人達と避難したものである。

原爆が投下された8月9日は夏休み中で近所のお友達と川に泳いだり防空ごうの近くの広場で遊ぶ事が日課であった。当日の天気は晴天であった事が50余年経っても覚えている。当日●●君と防空ごうの前にあった大きな柿の木(現在もあります)に登って遊んでいる時一瞬、すさまじい閃光がはしり何秒か経った後、爆風と爆音とで空が、まっ暗になり柿の木に登っていた。我々友達は地面にたたきつけられた事が今でも私の頭にやきついている。20分も経ったであろうか、あのまっ暗だった空が夏空に変り民家は爆風で西側がほとんどこわれていた。一時間も経ったと思いますが、長崎方面から新聞紙や燃えかすがたくさん飛んで来て、家の庭が真白になる位降って来ました。閃光が走り、空がまっ暗になった後黒い雨が降った事も覚えています

夕方になると近くの医院にリヤカーで運ばれた被爆した字方々が水を下さい、水を下さいと云った言葉が頭から離れません。本当にすさましい光景でした。

原爆が投下された後のその日の行動を書いてください。

夏休みである事から、物めずらしさで近くの医院に運ばれてくる被爆者を遠まきにして、水が欲しいと言われれば湯のみでくんであげるのが日課みたいの日々であった。

原爆が投下されてから今日まで健康への不安などがあったら書いてください。

原爆についての文献を色々と読破するに、なんで、12kmまで是正されないのか不思議に思います。8月9日にあのすさましい閃光と爆風とその後に降って来た燃えかすが今までずっと身にしみついているのじやなかろうかといつも不安に思っております。何回も東京に陳情に行きましたがだめでした。しかしまだあきらめてはいません

入道雲のようなのがモクモクと上がっていた

【証言13=女性】

原爆が投下された時いた場所

古賀村 中里

原爆が投下された時だれと一緒にいましたか。

●●当時5年生、●●(同級生)、中里町の同級生、上級生

原爆が投下された時どこで何をしていましたか。また、その時の周囲のありさまをくわしく書いてください。

記憶をたどると夏休み期間中だったのに休みはなく部落ごとに勉強会があっていた。中里町の下郷●●の●●●●(死亡)現在●●●●邸で同級生その他と遊んでいた。私は庭の柿の木に登っていた。他の人はかくれんぼなどしていた様に思う。ピカーと光ったので私はびっくりして柿の木よりとび下り、蔵か倉庫かの横の溝にふせた。他の何人かは小屋の中でふせていた。何か起ったのかわからず顔を上げ空(西の方)を見ると入道雲の様なのがモクモクと上がっていたのを鮮明に覚えています。

その後太陽が真黒く見えました。皆帰りだしたので私の家に帰りました。帰えると中に真暗くなり雨が降りだしました

家に帰ると母と妹が防空ごうに入るところだったので近所の人々と防空ごうに入った。少し落ち付いて来たので外に出ると県庁の書類とか厚い本類が風にのり飛んで来ました。灰なども飛んで来ていた。●●さんが田結の方に飛んでいったと話していた。

家の中の障子襖はなぎたおされていた。

原爆が投下された後のその日の行動を書いてください。

9日の日の夕方より10日余日母は村役場におにぎりのたきだしに行った。長崎方面より焼けただれた人々がぞろぞろと歩いて来ていた。

その後近所の人の姉さんが頭がまるぼうずになって来たり全く知らない人が空家に住みついたりしていた。姉と兄は一週間ぐらいして長崎に行ったらびっくりしていた。

原爆が投下されてから今日まで健康への不安などがあったら書いてください

当時はほとんどの人が井戸水か、ため水を飲んでいた

古賀地区に住んでいた人はガンにかかる人も多い様に思う

兄も骨髄性白血病で亡くなったので私も健康には不安があります

(当日風は矢上古賀方面へ何でも書類とか物とか飛んで来たので)

灰が何日も何日も飛んできた

【証言14=女性】

原爆が投下された時いた場所

古賀村 木場

原爆が投下された時だれと一緒にいましたか。

父、おじ

原爆が投下された時どこで何をしていましたか。また、その時の周囲のありさまをくわしく書いてください。

今回、母や、兄や姉から聞いてまとめました。当時私は2才7カ月。

夏の暑い日に家の庭先で父とおじが自転車の修理をしていたそばで遊んでいたそうです。姉や兄達は小学生でしたので部落の公民館に集まり近所の子供達と勉強のため集まっていたので、私だけが家の外で父やおじと一緒だったそうです。警戒警報が鳴りました。空を見た父が音もなく近づいて来た飛行機を指さしたしゅんかん、飛行機の様なものが3ケ落ちたと言います。30秒位してピカッと目もくらむ位の光りが走ったそうです。其の有様は、戸や障子は飛び散り私はたおれていたそうです。次の瞬間、空は真黒くなり木の子雲はまだ出来ず雲の上の方が三角形に成り亭々に木の子の形に成ったそうです。あたりは、夜の様に暗く成り、公民館より帰る途中の兄の頭の上に雨が小々降ったそうです。その時太陽が真っ赤に成り俗に云う火の玉の様に見えたと云います。小さな部落(7~8戸)ですので皆が集まり地球最後の日みたいに大変だったとか。

私の実家には今の防空ごうがありますがサイレンが鳴るたびに近所の人がひなんして来てローソクを付け寝泊まりしていたのを私は自身覚えています。何か沢山人が集ったらうれしくて楽しかった事も覚えてます。

防空ごうの入口近くで遊んでいると長老の人から飛行機の人が見つけるからと入口のムシロの中に入れられたものです。

原爆が投下された後のその日の行動を書いてください。

火の玉がやがて太陽に変った後から風に集って色々な燃えかす、灰が何日も何日も飛んできたとか。父は、消防団員でしたので3日後より長崎へ入り亡くなった方々を集めてダビにふしたと。この世の出来事ではないと全く地獄図だったと。

父の事について私が小学校に成り思った事は、散髪は家でしてましたので父の頭は丸坊主でした。髪をつかんだ頭は、あわ粒状のものが頭全体に出来てました。「かゆい」と云いながらゴシゴシしていたものです。爆弾のせいではないかと思いました。

原爆が投下されてから今日まで健康への不安などがあったら書いてください。

小学校の時から貧血はありました

結婚してますます低血圧がひどくなり頭痛やはきけが続き1週間の内に2日位は寝ることがありました。男の子が学校から帰宅するのを待って●飯だけは炊いてくれました。その頃より腰の具合が悪くなり真っすぐに立つ事が困難です。荷物を持つと腰をかがめるか、腰をそらすかどちらか。整体や、あんまにも行きましたが今一つピンと来ません。4年前に筋腫の手術を受けました。以来重たいものは持たない様にしています。腰のこともこれ以上進まぬ事を願いながら仲良く付き合っています

頭痛の方は、今も1ケ月に2、3回ものすごく痛みますので薬は手離せません

【三重村】

船上で黒い雨を浴び、しばらく吐いた

【証言15=男性】

原爆が投下された時いた場所

三重村 三重浜の沖で船に乗っていた

原爆が投下された時だれと一緒にいましたか。

●●●●●●

原爆が投下された時どこで何をしていましたか。また、その時の周囲のありさまをくわしく書いてください。

三重浜の沖で船に乗って藻を切りに行った(藻は火薬になると聞いた)

光を感じ自分のすぐそばにバクダンが落ちたと思った

その後黒い雨が降り 雨にもぬれた

しばらく2人とも吐いて すごくのどがかわいた

私に水をのせていたので 2人でその水をのんだ

数日は下剤やのどのかわきがつづいた

原爆が投下された後のその日の行動を書いてください。

投下された次の日 大波止まで歩いて行った(実父と美市をさがしに)

見つけられずに 多以良町の家家まで歩いてもどった

夜に長手の小学校にけが人のはこぶ手伝いに行った

原爆が投下されてから今日まで健康への不安などがあったら書いてください。

現在病院にはかかっていないが 時々めまいふらつきがする

手足のしびれ などが気がかり

(写真は2024年8月8日〜9日、長崎市内で阿久沢悦子撮影)

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