「ナガサキの被爆体験者を被爆者と認めてください」 首相と初の面会 厚労相に「合理的解決」を指示

記者名:

「被爆体験者」を「被爆者」として認めてください

米軍が長崎に原爆を投下してから、79年が過ぎました。9日、長崎では犠牲者を悼む式典が執り行われる一方で、今も「被爆者」としての保障が受けられていない「被爆体験者」と呼ばれる人たちが初めて、岸田文雄首相と面会。「被爆体験者は、被爆者だ!」との訴えに、岸田首相は「合理的な解決」を検討する方針を示しました。

彼らの訴えは届くのでしょうか。面会の詳報をお伝えするとともに、「合理的な解決」の落とし穴についても解説します。

(阿久沢悦子、小山美砂)

面会の場は、式典の後に設けられました。毎年、被爆者団体の代表が国のトップに要望を伝えるために開かれていましたが、「被爆体験者」の参加が認められたのは今回が初めてのことです。

【そもそも「被爆体験者」とは?】

  出典:小山美砂『「黒い雨」訴訟』(集英社新書、2022年)

長崎では、医療費が無料になるなど「被爆者」としての援護が認められる範囲は、旧長崎市内とその周辺(上図のピンクと青のエリア)に指定されています。爆心地からの距離は南北に最大約12km、東西に約7kmです。「被爆体験者」と呼ばれる人たちは黄色のエリアで、同じ12km圏内でも「放射能の影響なし」とされ、精神的な健康悪化しか認められていません。2023年4月には、胃がんなど7種のがんに対して医療費が助成されるようになりましたが、精神疾患に伴う合併症とがんとの関連を調べるための「調査研究」との位置づけ。助成はその対価として支払われるもので、「被爆者」認定を求める被爆体験者の願いからはほど遠いのが実情です。面会には、被爆体験者でつくる3団体の代表が参加し、随行者の出席も認められました。

【首相に伝えたい――面会の詳報】

「私たちは被爆者ではないのでしょうか?」

発言が認められたのは、2007年から裁判などを通して「被爆者」と認めるよう訴えてきた長崎市の岩永千代子さん(88)です。9歳のとき、爆心地から10.5kmの場所で被爆。1週間後には脱毛や歯茎からの出血がみられました。大人になってからも体調不良は続き、甲状腺機能低下症の治療を受けました。同じように被爆者と認められなかった約400人から体験の聴き取りを続けてきました。

=岩永千代子さん

持参した3枚の絵

岩永さんは3枚の絵を持ってきました。訴えはその絵の説明から始まります。

1枚目。2人の人物が横たわっています。

「これは(爆心地から)北東部8km、間の瀬地区の松尾恵美子さんが描いたものです。姉は腹が膨れて亡くなり、祖父は髪が抜け、脱毛状態だったとのことです」

2枚目はモノクロで家族が爆心地の灰をふるいにかけている様子が描かれています。

「これは北西部11kmの時津町、嶋田サチ子さんが描いたものです。嶋田さんの祖父たちは当時貴重だった田や畑の肥料に、被爆後、トラクターのような車で長崎市内の灰を集めて持ち帰り、毎日のように灰を蓑で振るう作業をしていました。子どもたちはその灰の中からおはじきやビー玉を見つけ喜んでいました。その後、長女は肝臓がんで亡くなり、次女は子宮がんで手術し、現在入院中。サチ子さん自身も歩行困難で、重い腎臓病です。祖父は一夜にして腹が膨れて亡くなり、医者から『原因は分からない』と言われたとのことです」

3枚目は黒い空から白い気球が落ちてきて、その下で子どもたちが水を飲んでいる絵です。

「東部11kmの戸石村、鈴木さんが描いたものです。空が黒くなり、太陽は真っ赤、大量の灰やごみの中、ラジオゾンデ(気象観測用のゴム気球)が飛んできて米兵がいると勘違いし、竹槍を持って追いかけたとのこと。鈴木さんは現在、前立腺がんで苦しんでいます。他にも『灰でへのへのもへじを描いた』『降ってくる灰の中の紙幣をザルを持って追っかけ回った』『そのうち家族の中に甲状腺がんや白血病などが顕れるようになった』など多数の証言があります」

内部被ばくがいかに人体をむしばむか

岩永さんは一呼吸を置き、首相を見ました。

「これが現実です。内部被ばくの実態そのものです。総理に申し上げます。私たちは被爆者ではないのでしょうか? 今回の被爆体験記調査に対し、当事者が素直に記述していることを価値がないかのように切り捨てた厚生労働省の回答もあまりに無礼だと思います。しかし、私たちは政府に抗議しているのではありません。余命短いからと哀れみを請うているのでもありません。ありのままを伝えているのです。『低線量被曝で健康被害はない』と決めつけないで、内部被ばくがいかに人体をむしばむか、研究を深めてほしいのです」

「原爆投下当時、ほとんどの家庭が井戸水、川の水、岩場のため水、山から引いた水を瓶に貯めて、生のまま飲んでいました。干した梅の上に真っ白く灰が降っても誰も何もいいませんでした」

=支援者の平野伸人さんが岩永さんの右隣に立ち、岸田首相に絵を見せました。私たちの撮影が許可された場所(会場後方)からは、被爆者団体代表の後ろ姿しか見ることは叶いませんでした

病に苦しみ亡くなっていった仲間たち

2021年の広島高裁判決(後述する「『黒い雨』訴訟」)は、原爆投下後に降り注いだ「黒い雨」や灰などの放射性物質による内部被ばくの可能性を認めました。

「私たちは広島高裁判決が指摘したのと同じように、空気中の放射性微粒子を吸い込んでいます。飲食物も同様です。内部被ばくによって健康被害を受けた可能性が否定できない被爆者でしょ?」

「被爆体験者」の仲間が「被爆者」と認められないまま、病に苦しみ次々と亡くなっていきました。当初、約400人いた原告は44人に減りました。

「ある時、松田さんという方が入院している病院から電話がありました。そこは死を待つ病院でした。もの静かな目立たない方でした。彼は手を差し出して『岩永さん頑張ってください』と弱々しい声で私を励ましたのです。白血病で亡くなりました」

「谷口さんは『私の病気は原爆のせい。遺言しとくね』と言って亡くなりました」

「原爆は熱線、爆風、初期放射線で無数の人を殺傷しただけではなく、放射性物質を広範囲にばらまき、79年たってもなお、手帳交付がされていない人や、また次々と内部被ばくによる晩発性疾患にさいなまれ、亡くなっているのが現状です。総理お願いです。内部被ばくのこうした現実を世界に発信し、核廃絶の道筋を作っていただきたいのです。強く要望いたします」

広島との違いは「差別では?」

岩永さんは、長崎と広島の認定の違いについて思いをぶつけました。

「広島の黒い雨体験者を被爆者と認め、既に手帳を交付しています。同じような状況の私たちを認めていないのは、憲法14条の法の下の平等に反し、これは差別です。でも本日、総理は広島の方々と同様に被爆者だと認めてくださると信じます。それは国の元首であり、また原爆の実情をよく把握しておられ、命が地球よりも重いと認識されておられる方だからです。国内外の支援者の方々と共にご期待申し上げています。よろしくお願いします」

=被爆体験者の代表として出席した3人。中央は岩永さん

厚労相「ご苦労をご推察申し上げる」

面会では被爆者団体から岸田首相あての要望書が提出されました。被爆者に関する要望の一番目に「長崎の被爆体験者も広島と同様に被爆者として認定を」とあります。

岩永さんの話を受け、武見敬三厚労相は次のように述べました。

「被爆体験者の方々への被爆者健康手帳の交付については、課題がありますが、厚生労働省としては被爆体験が原因の精神疾患や合併症に対して、医療費の助成を行うとともに、昨年の4月からは一部のがんも助成対象に追加するなど、被爆体験者の方々の支援に努めているところでございます」

「本日、みなさまのお話を直接伺い、あらためてみなさまの大変なご苦労をご推察申し上げますとともに、今後ともみなさまに寄り添いながら、原爆被爆者援護対策にしっかりと取り組んで参りたいと思います」

岸田首相は核保有国への働きかけを通して核不拡散条約の堅持、強化を図ることや「核兵器のない世界」を実現するためのアクションプランについて述べました。

首相「合理的、具体的な対応策を調整」

しかし、被爆体験者については次のように述べるにとどめました。

「みなさんの声を直接聞かせていただいた。大変つらい経験についてお話をいただきましたこと、心から感謝を申し上げます。広島でも被爆体験者について言及をいただいている。政府としては被爆体験による疾患などへの医療費の助成を行うとともに、昨年4月から一部のがんも助成対象に追加するなど、被爆体験者の支援に努めているところでありますが、被爆から実に80年が経過しようとしています。被爆体験者の方々は高齢化されておられます。また広島との公平性についてもご指摘がありました。政府として早急に課題を合理的に解決できるよう厚生労働大臣において長崎県、長崎市を含め具体的な対応策を調整するよう指示をいたします。厚生労働大臣、ぜひ真剣に具体的に取り組んでもらいたい」

【面会終了後の出来事】

「本日は誠に、ありがとうございました」。岸田首相が頭を下げると、被爆者団体の「随行者席」に座っていた男性がおもむろに立ち上がりました。岩永さんが要望を伝える時に、証言を伝えるために用いた絵を掲げています。

「岩永さんの声が聞こえないんですか!」

「被爆体験者は、被爆者じゃないんですか!」。閉会を告げる司会の声をさえぎるように、大声を上げています。すかさず長崎市の職員ら2人が静止しに入りましたが、男性は止まりません。

=岩永さんの絵を掲げて訴える平野伸人さんと制止する長崎市職員。岸田首相は困ったような笑みを浮かべながら見つめていました。

「岩永さんの声が聞こえないんですか」

男性は、約20年にわたって被爆体験者を支援し続けてきた被爆二世の平野伸人さん。初めて面会にこぎつけられたにも関わらず、政府側からは「ゼロ回答」だったことに、憤りが抑えられないようでした。

岸田首相は困ったような笑みを浮かべながら聞いていましたが、立ち上がって平野さんに近づき、目の前に立ちました。会話の内容を明瞭に聞き取ることはできませんでしたが、「厚生労働大臣がしっかりお話をお伺いし、対応策を考えて参ります」と、武見厚労相に指示したことを明らかにしました。その後、岸田首相は被爆者団体代表の1人ひとりにあいさつして回り、岩永さんは「内部被ばくをね、ぜひ世界に発信してください」と、手を握りながら訴えていました。

=平野さん(右)に近づく岸田首相

同じ日本という国の中で2つ基準がある

平野さんの発言によって、武見厚労相が会場に残ることに。公式の場では発言が認められなかった被爆体験者たちも立ち上がって思いを述べていきます。

「広島は30km、40kmまで認められている。広いんですよ。私たちはたったの12km。同じ日本という国の中で、2つ基準があるのは不思議です」

「私は89歳。厚生労働大臣にお会いできるのも最後かな、と思うとるんですよ」

「私は爆心地から9kmのところで、爆風に吹き飛ばされました。一緒に吹き飛ばされた9歳の友達は、下痢をして60日後に亡くなったんです」

「根本的な解決を。すべての原爆被害者を、被爆者に認定するよう、切にお願いします」

意見交換は約15分続きました。武見厚労相は、「皆さま方から直接お話を伺うことが極めて大切であると改めて認識しました。総理からも指示がありましたが、早急に解決できるように、長崎県、長崎市も含めて具体的な対応策を検討いたします。今日のお話をしっかりと受け止めながら進めていきます」と答え、会場を後にしました。

同じ答えを繰り返す首相

面会の終了後に開かれた岸田首相の記者会見では、岩永さんの訴えにどのように答えたのでしょうか。西日本新聞の記者から質問がありました。

「被爆から79年。科学的根拠を求めるのは無理があります。政治判断で被爆者と認定すべきではないでしょうか?」

岸田首相は面会時と全く同じ答えを繰り返しました。まるで用意してきた原稿を読むだけのようです。

「今日被爆体験者のみなさんとお会いさせていただき、これまでのつらい経験を直接伺いました。政府としては、被爆体験による疾患などへの医療費助成を行うとともに、一部のがんも助成対象に追加するなど、被爆体験者への支援に努めてきたところです。被爆体験者は高齢化しており、広島との公平性についての指摘もあった。政府として具体的な、合理的な解決策について、調整を進めて参りたい」

【岩永さんの言葉】

対して被爆体験者らの会見では、首相の発言を一定評価しようという見方もありました。

岩永さんの言葉です。

一抹の喜び、希望が見え隠れ

「一抹の喜び、希望が見え隠れしたという感じがしました。面会をするということでなにがしか、希望的な観測は持っていました。それが実現したのかなと思う。みなさんに、特に亡くなった被爆体験者の方たちへの答えとしてなにがしか出てきたね、という思いがある」

合理的という言葉は、これまで科学的合理性が認められないと被爆体験者を切り捨てる方便として使われてきました。この言葉を信じられるか?と問われ、岩永さんは言葉を選びながら答えました。

「合理的とか科学的とか、被爆地域を定め、被爆者を救済するための合理的科学的な調査は全く行われていない。言っていることと対応していることが全然違うんですよね。政府が曖昧に言っているということを私はある意味容認して、政府の側が(救済策を)模索しているんじゃないかなという思いがある。いいように解釈すれば、合理的という言葉の中に、模索していく道筋をつけたいという意向があるんじゃないかなと感じますね。結果としてどういう結論になるかはこれからなんですけど、首相は厚労相に指示しましたからね」

=被爆体験者側の受け止めを語るために開かれた会見の様子

内部被ばくの研究深めて

「でも、3割方不安があるのも事実です。うーん、でも……発した言葉に希望を見いだしたいんですよね。道は長いし、ひょっとすればまた合理的という言葉で分断されていく状況があるかもしれないけど、私たちは恐れない、くじけない。必ず光が見えてくる道があると思いますね」

首相は「つらい体験」という言葉を使いましたが、岩永さんの発言は主観的な「つらさ」の吐露ではなく、絵を用いて客観的な描写に徹したものでした。 

「科学的な立証ではなく、被爆者の壮絶な苦しみの状況が被爆の実相だと世間が思っているんじゃないかなという思いがある。外部被ばくと同等に内部被ばくがあるんだ。核が人間にどう作用するかという、そういった研究がもっと深まって、広まって、世界的に活用されていくことに期待します。わずかなわずかな活動ですけど、チャンスになればいいと思う」

改めて今日の面会を振り返って岩永さんは、こう総括しました。

粘り強く対話していく

「発言は5分以内で納めてくださいということだったので、埋もれた被爆者に視点を置いて、なんの手当もない犬死にが放置されてきたこのありさまは、戦前の国民に特攻や玉砕を強いたことと重なる。だから悲しい思いがしたとお伝えした。私は、政府に対して抗議活動というのではなく、ありのままをありのまま伝えているんです。おかしいことはおかしいでしょ、という自然な発露というか」

「首相の受け止めは、内部被ばくという事実の啓蒙を、私自身もして来なかった帰結かなと思いました。もっと私たち自身も確証を持って言ってくればよかった」

「人間のもろさ、弱さが露呈してきていると思います。政府は自分たちが間違っているということを誤魔化さないでほしい。精神疾患に限って医療費を認めるとか、ちょこちょこアメをくれる政策をやってきて、やれアメの次はようかんだと。がんの一部を認めますとなりました。これまでがんは絶対認められないと言ってきたのにね。人間のもろさですよ、これは」

「だから抗議ではなく対話が必要なんですね。政府に失望するけど対話していく。その粘り強さが必要。私たちがやってきたことは決して無駄ではないという思いでやれることをやっていきます」

=岩永さん

【記者解説もう「アメ」はいらない——合理的解決の落とし穴】

「一歩前進」「光が見えました」「これからに期待しています」

岩永さんをはじめ、要望を終えた被爆体験者の代表たちは口々に前向きなことばを語りましたが、私はそれらを素直に受け止めることができませんでした。「合理的に解決できるよう指示しました」。岸田首相のこの発言が引っかかっていたのです。合理的な解決策とは一体何を指すのでしょう? なぜ、この場で彼らの思いに応える判断をすることができなかったのでしょうか。

被爆体験者の要望は、極めてシンプルです。つまり、「被爆体験者も『被爆者』と認めてほしい」ということ。

「被爆者」とは冒頭でもご説明した通り、医療費補助や各種手当を受けられる「被爆者健康手帳」を持つ人たちのことを指します。被爆者認定を退けられている被爆体験者は、国に「放射能の影響なし」と判断されているため、精神疾患や一部の疾病に対する医療の給付しか認められていません。この扱いは差別ではないのか、どうして被爆体験者も被爆者と認められないのか——被爆体験者たちの訴えは、シンプルであるがゆえに切実なのです。

さらに、広島との格差も生じています。広島では2021年7月、米軍による原爆投下後に降り注いだ「黒い雨」を浴びた住民たちが訴えた「『黒い雨』訴訟」で、原告全員を被爆者に認める広島高裁判決が確定。この判決によって援護対象を広げる新基準が策定され、爆心地から30km離れた地点にいた人でも、雨や灰などの体験をしていて、かつ一定の種類の疾病を患っていれば「原爆放射線の影響を受けるような事情の下にある」として、手帳が交付されることとなったのです。

しかし、新基準は長崎に適用されませんでした。

長崎でも雨や灰が広範囲に降り注いだという証言や、それを示唆する残留放射能調査があるにも関わらず、です。内部被ばくした可能性があるのに、長崎では12km圏内でさえ認めないのは不平等ではないか? これが、彼らが訴える2つ目の差別です。

広島高裁判決の考え方を長崎にも適用すれば、すぐにでも被爆体験者を救済できると私は考えています。

岸田首相は回答の中で、「大変つらい経験をお話いただきました」と述べました。つらい思いをさせてきたのは、一体誰なのでしょうか。被爆体験者に対する救済策は、ちょこちょこと「アメ」をやるようだと岩永さんは表現していました。つまり、精神疾患など一部の病気に対する医療費助成は確かに実施され、その内容も拡充されてきました。しかし、彼らが本当に求めている「被爆者」への認定はこれまで否定され続けて来たのです。

「合理的な解決」の落とし穴は、ここにあります。もう「アメ」はいらないのです。これまでの被爆者援護行政を見直し、2つの差別を解消すること。そのためには、被爆体験者を被爆者と認めるしか、選択肢はありません。

被爆者に認められれば、総合的な医療支援が受けられます。しかし、彼らが手帳を求めるのはそれだけが理由ではありません。「事実を事実として残したい」。広い範囲に及んだ原爆被害を正しく残し、核兵器の廃絶につなげたいという思いがあるのです。

岩永さんは、「私はおばあちゃんだから、とにかく、首相の言葉になんとか希望を見出したいんですよね」と言って笑っていました。前向きな言葉を繰り返す本心は、ここにあるのでしょう。長い間否定されてきたけれど、ようやく対面が実現した。このことに望みをかけるのは当然といえるのではないでしょうか。

だからこそ、彼女たちの願いを改めてここに記しておきたいと思います。「被爆体験者を、被爆者として認めてください」

(小山美砂)