阪神・淡路大震災から30年になるのを振り返り、「被災者復興支援会議」の記録を読んでいる。兵庫県の貝原俊民知事(当時)が、震災から半年後の1995年7月に立ち上げた。行政と被災者の橋渡しとなる有識者会議だ。
仮設住宅や支援団体の活動の場を訪問して、県職員と有識者が被災者の生の意見を聞き取る井戸端会議は143回。ほかに「土曜いどばた」など、課題解決に向けて知恵を出し合うフォーラムが61回開かれた。1998年12月までの3年半の間に13回に分けて提言をまとめた。
被災者のニーズを聞き、県職員が知恵を絞る
仮設住宅の戸数は、計算上は足りていたが、住み慣れたコミュニティを遠く離れた場所しか当たらない人も多く、不満は尽きなかった。ある委員は「1+1=2とはいかんのだと痛感した」と記している。人は屋根のみにて生きるのではなかった。
「仮設住宅の独居高齢者に配食サービスを提供してほしい」
「仮設住宅で商売ができるようにしてほしい」
「郊外の仮設からかかりつけ医に通う交通費を支給してほしい」
「仮設の中の道が砂利で、車椅子が通れない。舗装してほしい」
「迷ってしまうから、棟の番号を建物の両側に大きく書いてほしい」
井戸端会議で出た大小さまざまな声を、有識者が聞き取る。その場には県職員も付き添い、担当課に持ち帰って解決策を検討した。一部はすぐに改善された。国の施策で使える仕組みを掘り起こし、あてはめる術を探った。被災者のニーズをくみ取ってコミュニティビジネスを始めるNGOもあった。行政と民間が手を携えて、小さなニーズを満たすために走り回っていた。
「新しい市民社会」の萌芽は今
新聞記者として取材をしていたが、そのときは圧倒的な被災者の生活の大変さと行政への不満の大きさを前にして、「行政が“やってる感”を出しているだけなんじゃないか」とか「問題解決のスピードが遅すぎる」とか、どちらかというと冷ややかに見ていた記憶がある。
でも、今、この記録を読み返すと、公邸から県庁まで駆けつけるのが遅かったと初動を批判された貝原知事が、痛い経験を経て、公共とは、公助とは何かを考え抜いた上に出した策だったのではないかと思える。
まとめの中には「新しい市民社会」という言葉も出てくる。自分たちで課題を出し、行政に変革を迫る。そんな営みの萌芽が確かにそこにあった。
官だけ、知事だけで決めていないか
10月31日、兵庫県知事選が告示された。7人が立候補し、11月17日に新しい知事が決まる予定だ。私が知事選で問いたい最大のことは「新しい市民社会」の行方だ。
震災直後のあの時に芽生えた官民共働の枠組みは、いま残っているだろうか? 官だけで知事だけで、トップダウンで決めていることはないか? 県庁内に住民の意見を聞く耳、住民とともに困りごとの解決策を考える頭が残っているだろうか? 庁内にパワハラがある環境で、職員は住民と向き合うことができるだろうか?
国が混迷の中にある今だからこそ、あの時の「新しい民主主義の形」をもう一度思い返し、足元から実践できる人に、知事になってほしい。