米国が核実験を繰り返し、甚大な被害を受けたマーシャル諸島。現地で暮らす人々とのふれあいを通して、「キノコ雲の下から」核被害を見つめる本連載は、今回で最終回です。
第3回では、アクティビストの瀬戸麻由さんにご寄稿いただきました。広島を拠点に核兵器廃絶を目指して活動を続ける彼女は、核の被害を受けた国としてだけでなく、かつて日本が統治した国としてのマーシャル諸島にも出会います。そこで感じた「圧倒的に足りないこと」と、「学び続けなければならないこと」とは、一体何だったのでしょうか。
(写真はすべて2024年3月撮影)
瀬戸麻由
広島県呉市生まれ。 「核政策を知りたい広島若者有権者の会(カクワカ広島)」メンバー。学生時代にNGOピースボートの船旅で世界を3周する中で世界のヒバクシャと出会い、核問題に取り組み始めた。 22年6月の核兵器禁止条約の第1回締約国会議に参加した際に、マーシャル諸島をはじめ世界各地の核被害コミュニティから参加した同世代のアクティビストとの出会いをきっかけに、オンラインで各地の被害を学ぶ「世界のヒバクシャと出会うユースセッション」を立ち上げた。企画を続ける中で直接現地でさまざまな人に出会い、学びたいという気持ちが強まり、24年3月にマーシャル諸島に渡航。
核問題との出会い
「広島と長崎以外でも『ヒバク』している人たちがいる」と知ったのは、大学1年生の時だ。
私は広島県呉市で生まれ育った。祖母は被爆者健康手帳を持っていたが、彼女の経験を聞く機会がないまま大学に入学。1年生の時に国際NGO・ピースボートが運営する船旅に参加し、太平洋に浮かぶ船の上で、初めて広島や長崎で被爆した人の体験に直に接した。
そのとき船の上には、日本から乗船した被爆者のほかにも、フランスの核実験による被ばくの影響について語るタヒチの人々、原子力発電の材料として使われるウランを採掘する鉱山での放射能汚染について訴えるオーストラリアの人々が、ゲストとして乗船していた。
核被害の問題は決して広島と長崎に限られた話でも、何十年も前の話でもない。原子力発電から得た電気を使う社会に生き、米国の「核の傘」に頼る国のいち市民である私は、意識しないままこの問題に加担していたんだー。
大きなショックと共に得たこの気づきが、今も活動の原動力になってる。
世界にある問題を学びたいという思いを持って旅をするごとに、見えていなかった新たな課題や自分が持つ加害性に気づき、重く苦しい気持ちで絶望する。しかし同時に、現地で出会う人々の取り組みや、日常を積み重ねていく姿から、手足を動かし続けるパワーをもらえるような感覚がある。
2024年3月に訪れたマーシャル諸島でも、そんな出会いや学びがたくさんあった。
核被害の事実を次世代へつなぐために
核被害者追悼記念日の前日の昼下がり、私はマーシャル諸島短期大学の中庭にいた。学生たちが運営する「Nuclear Club」が、学んだことをアートや壁新聞のかたちで展示している。代表のジーナさんが話してくれた、彼女のひいおばあさんのお話が印象に残った。
ジーナさんのひいおばあさんは核実験当時12歳で、ロンゲラップ環礁に住んでいたそう。「ここであった私たちの『戦争』を知ってる?」と、問いかけられた幼いジーナさんは、「おばあちゃん何言ってるの、戦争はもっと昔に終わってたでしょ」と話を聞き流してしまった。核実験のことを「戦争」と表現したひいおばあさんは、「いずれわかるよ。私たちは使われたんだ、私たちは使われたんだ…」と呟いていたと言う。
自分の経験がひ孫に伝わらないことがわかって言葉を呑み込んだひいおばあさんの気持ちを、そしてひいおばあさんが亡くなった後になって事実を学び、後悔するジーナさんの気持ちを想像して、心がぎゅっと痛くなる。
ひいおばあさんの話に向き合えなかった心残りが原動力になって、Nuclear Clubの活動を続けているというジーナさん。米国との関係が深いマーシャル諸島では未だに歴史の授業で米国の教科書が使われていて、核実験についてもマーシャル諸島側の視点で学ぶことが難しい。だからこそ大学生たちが自ら学び、さらに若い世代の子どもたちに核実験で受けた被害の歴史を伝えるための活動を展開しているそうだ。
Nulcear Clubの活動を発足以来サポートし続けるメアリー・シルクさんは、核被害の教育の意義についてこう語る。
「事実を学んではじめて、自分の感情が動いて、憤ることができる。その憤りがあってはじめて、声をあげることができる」。
被害を受けた環礁の出身者でも、被害の実態を学ぶ機会がないまま入学してくる学生が少なくない。故郷で起きたことを自分で語ることができるようになるためにも、まずは事実を知ることが大切なのだ。
翌日、追悼式典の会場への行進に参加した時に、中学生の女の子とおしゃべりをした。「核実験のことは学校で勉強するの?」と尋ねると、「うん。先生が何が起きたか話してくれて、大学生が撮ったサバイバーの動画を見せてもらったよ」と話してくれた。これまで奪われ続けてきた事実を学ぶ機会が、マーシャル諸島でも少しずつ広がっている。
日本と「南洋群島」と呼ばれた島々
第1回で触れたように、日本がマーシャル諸島を含むミクロネシアの島々を統治下においた時代があった。史実としてそのことを認識しながらも、実際に目にするものや耳にする言葉、出会った人とのコミュニケーションの端々に日本統治時代の名残を感じるたびに、ドキッとする感覚があった。
首都マジュロの空港に到着した日、空港で迎えてくれた方が、ワイヤーで作った可愛らしい花飾りを手渡してくれた。このハンドクラフトは、日本軍がマーシャル諸島に残した通信用の電線を戦後にマーシャルの人々が掘り出し、女性たちが加工して花飾りにするようになり、作られはじめたものだ。
いただいた花飾りを身につけて向かった追悼式典の会場近くで、ふいにおばあさんに日本語で話しかけられたこともあった。「きれいですね」、「あすは雨ですね」、「こんにちは」。屈託のない表情で矢継ぎ早に飛び出す日本語にどぎまぎしてしまった。
一番印象的だったのは、街の図書館に立ち寄った時に、司書の女性が語ってくれたことだ。
「私のお母さんはガッコウに通っていたのよ」
「ダイトウアセンソウで、私の親たちは島を出なければいけなかった」
「島のものは全部兵隊のもの。島に残るなら首を切られると言われて」
「みんな泣きながら、島を離れたの」
英語でのやりとりの中に、ふいに混じる日本語の単語にどきりとする。彼女のお母さんはマーシャル諸島よりも西側に位置するチューク諸島の出身だった。日本が「南洋群島」と呼び、太平洋戦争中は戦場となった地域のひとつだ。
「悪いことばかりじゃないのよ、最初はみんな日本人が好きだった」
「お母さんは私たちに言ったわ。『あなたたちもみんなガッコウに通ってたら、もっとお行儀がよかったのに!』ってね」
悲しいことを話している時も、どこか冗談めかした口調で、日本人である私を責めるような言い方では決してない。そのことにむしろ、私は戸惑った。かつて日本がこの土地の人々の大切な故郷をそこにあった文化ごと奪ったんだという事実と、柔らかく軽やかな、私との気持ちのよい会話を大切に紡いでくれる彼女の言葉のギャップに混乱したのだ。
私が「日本がしたことを許せないし、憤りを感じる」と正直な気持ちを、怒りをはらんだ声で口にすると、彼女は困ったように笑った。この歴史について腹を割って話すには、細かな史実の知識も、目の前の人との時間をかけてつくるべき信頼関係も、圧倒的に足りないと思った。
日本に帰ってからも、いくつかの歴史の資料館を訪れ、太平洋戦争に関する展示の中に「南洋群島」を見つけるたびに、いかに今まで見落としてきたものが多いのかを痛感している。米国統治下で行われた核実験からさかのぼると避けて通れない、日本の統治時代。目を逸らさずに学び続けたい、次回マーシャル諸島を訪れる時に彼女と再び言葉を交わしたいと思う。
歌と詩とアートのちから
核被害者追悼記念日の前夜、マジュロのリゾートホテルの一角でアートのイベントが開催されていた。気候危機や核実験の被害を題材に、絵画やインスタレーション、映像などが展示されたほか、詩の朗読や歌、ダンスのパフォーマンスも行われる。
核実験にまつわる様々なお話を見聞きし、頭も心もいっぱいになっていた私にとどめを刺すように響いたのは、セリーナ・リームさんの詩の朗読だった。マジュロ出身で気候変動の活動家でもあるセリーナさんが、核実験の被害について語る詩だ。
先天的に身体の一部がない状態で生まれて、数日で亡くなったいとこに語りかける場面。「あなたの耳はどこにいったの?」「わたしの声が聞こえる?」というセリーナさんのささやき声。
皮肉を込めて「For the good of mankind(『人類の幸福のため』:米軍政長官がビキニの人々に移住を要請する際に使った表現)」というフレーズを繰り返す、お腹の底に響くような強い声。
核実験が一人一人の人生にもたらした数えきれない理不尽が情報の波になって押し寄せる中、その波に圧倒されてうまく動かなかっていた感情のタガが、はずれた瞬間だった。この土地に積み重ねられてきた哀しみを理解しきるなんてできるはずがないけれど、セリーナさんの声に、自分自身の心が揺さぶられた経験は、とても大きかった。
翌日の追悼式典の中でも、ビキニの人々がビキニ環礁歌を歌う場面があった。マーシャル語の歌詞がわからない私は、声が自然に重なってつくられるハーモニーがとてもきれいだと感じた。後で調べて、帰ることができないできない故郷への思いを歌った、心が苦しくなるような詩の歌だとわかった。
インターネットを駆使して様々な方法で情報を得ることができる今、旅をして現地で学ぶことの意味を改めて考える。人と出会い、声を直接耳にして、自分自身の心を震わせて憤り、戸惑い、悲しみ、その上で行動する力を持つこと。
「マーシャル諸島で行われた67回の核実験」。
無機質な情報を扱うのではなく、その向こう側にいる人々に思いをめぐらせて、体温のある言葉を、たくさんの人と交わしていきたいと思う。