カースト最下層の女性たちがつくった新聞社
インドのカースト最下位「ダリット」の女性だけで立ち上げた新聞社「カバル・ラハリヤ」の活躍を描いたドキュメンタリー映画「燃えあがる女性記者たち」が16日、東京の渋谷ユーロスペース、シネ・リーブル池袋で公開された。これから全国各地で上映される。
小さな、女性だけの地方メディアが新聞のデジタル移行をどのように乗り切ったのか。従来の男性中心のメディアとは何が違うのか。映画は早いテンポで場面を切り替えながら、軽快にその歩みを刻む。
一方で取材テーマは深刻だ。「多発するレイプ」「マフィアによる採石場の違法操業」「宗教右派の台頭」……。他のメディアがタブー視するこうしたテーマにも彼女たちはスマホを片手に果敢に挑み、動画再生回数を積み上げていく。
家庭と仕事の両立に悩みながらもその歩みを止めない姿に、観客の私が励まされ、気がつけば喝采を送っていた。
映画公開を機に来日した女性監督のリントゥ・トーマスさん、男性監督のスシュミト・ゴーシュさんに、映画製作の経緯や背景となるインドの事情について聞いた。
女性たちが起こす変化に着目した
スシュミト リントゥと私は映画の学校を卒業した2009年に会社を興しました。その後沢山の短編映画を撮ってきましたが、注目していたのは女性問題です。ある地域の人々の中で、女性が肩書を持ったり、リーダーになったりすると地域が変わっていく。農業や団体、チームなどでも女性がリーダーシップを取ると変化が起きる。そこに興味を持ちました。
2015年にインターネットでカバル・ラハリヤのフォトストーリーを見つけました。カバル・ラハリヤの活動地域である北部のウッダル・プラデーシュ州というのは比較的女性に対する暴力が多い、特にダリットの女性への暴力が多いことが知られていた。その状況にある女性たちが新聞を発行していると聞いて非常に興味を持ちました。
カバル・ラハリヤに連絡を取ったところ、向こうも興味を持ち、デジタルに移行する際の編集会議に呼んでくれた。彼女たちに会ったことで、さらに「これは世界に見られるべきものである」と考えるようになりました。
無視される周縁の人々の声
――従来の男性主導のメディアとの違いはどこにあると感じましたか?
リントゥ インドでは多くの声が届く主要メディアは上流階級、上流カーストの男性がメイン。女性であること、ダリットであること、そういう周縁にいる人たちの声は無視されるか、いないことにされてきたという前提があります。
結果としてニュースは男性主義、父権社会のものだった。カバル・ラハリヤと従来メディアの一番の違いはそこにあります。
カバル・ラハリヤの哲学として特徴的なのは、都会ではなく地方のメディアであること。何かに依存せず独立(インディペンデント)していること。女性だけのメディアであること。これは従来のメディアとは全く違うものです。
国際社会がカバル・ラハリヤを支援
――彼女たちはどうやってあんなにたくさんのスマホを導入できたのでしょうか? 新聞社の経営はどうしていますか?
スシュミト 当初は慈善団体の寄付やクラウドファンディングなどで資金を集めていたようです。スマートフォンや新聞発行に必要な資材はそうしたもので賄われていました。
2020年にこの映画が世界でリリースされた後は、国際社会から資金提供がありました。援助を受け取るだけではなく、企業・団体と対等なパートナーシップを結ぶことにより、活動が広がっていった。
活動範囲も1州だけから、インド29州のうち4州に広がっています。記者の人数も約2倍になり、グーグルやフェイスブックなどに記事を書くことで活動資金を稼ぎ、持続可能な活動になってきた。新興メディアは数ヶ月で消えてしまうものが多いですが、カバル・ラハリヤは20年以上続いており、成功したと言えるでしょう。
段階的に目覚めていった女性たち
――記者のミーラが、権力からの独立、公平中立などジャーナリズムの精神をすでによく知っていることに驚きました。どのようにして体得したのでしょうか?
リントゥ 「カバル・ラハリヤ」の地域性にも関係する話です。ウッダル・プラデーシュ州の南部では、国連の資金提供を受けたNGOにより、文字が読めない女性への教育の社会実験が行われました。なぜ彼女たちが文字が読めないかというと、地域の慣習として女の人が教育を受けることが禁じられていたんです。
社会実験では、そういう人たちに、あなたたちがニュースを書くとしたらどういうものを書きますか?と聞いた。ダリットの人たちの声は「聞く価値もない」とされてきたんですが、自分たちの言語で自分たちの物語をニュースにするという実験が半年間行われたんですね。
彼女たちは実験が終わった後も、この活動をやめなかった。それがカバル・ラハリヤの始まりなんです。
彼女たちは、教育を受けることによって文字を知り、文章を書くようになり、ジャーナリズムに触れたことで自分たちの生活には意味があると気づくようになった。自分たちにあるはずだった「権利」を知った。段階的に女性たちが目覚めていきました。
現代インドでは女性の活動が活発に行われています。女性がリーダーになったり、独立起業したり、とフェミニストの活動が活発化しています。カバル・ラハリヤもフェミニスト的な活動の一環として、立ち上がったといえると思います。
都会のニュースメディアの女性記者たちとのワークショップを通じての成長もありました。都会のメディアも地方のジャーナリズムについて知る機会となり、学びと経験が積み重なっていった。
もともとウッダル・プラデーシュ州は父権的で女性の活動は全く歓迎されない地域。その中で活動していくには、ただぶつかるのではなく、なんとか工夫していく必要があります。
映画の中で3人の女性記者が出てきますが、それぞれ全くタイプが違います。スニータは個性的で、事件現場で男性記者に威張られても、マンスプレイニングされても平気。同じ立場で戦っていくタイプ。
ミーラは芯が通っているが、人当たりが優しくて、宗教右派の若者を取材した時も、彼の活動を非難しないことによって、信頼を勝ち取り素顔や主張を引き出すことができた。
同じ教育を受けたのに違うタイプの記者が育ったということに、私たちも注目しています。
男性記者が見過ごしてきたことに光
――日本ではジェンダーによって、記者が扱うテーマが異なります。たとえば、男性記者は大文字の政治や経済、女性記者は生活や身近なことを割り振られることが多い。映画を見ていてこれは世界的な傾向なのか、と思いました。インドではどうですか?
スシュミト 記者の属している生活に取材対象がリンクしていると思います。どの階層に属するのか、どういう環境に育ってきたのか。デリーやムンバイの男性記者と、ウッダル・プラデーシュ州の女性記者では、同じ地域を取材しても全く違う記事が出てくると思います。
映画に出てきた3人の女性記者ミーラ、スニータ、シャームカリは人々の生活に密接に関係したことを取材します。道路の問題だったり、トイレなど公衆衛生の問題だったり、都会の人々の興味を引かない小さな物事ですが、彼女たちには密接に関係がある。こうしたことは他の男性記者たちには見過ごされてきました。
また、スニータは採石場の違法操業の問題に切り込みますが、彼女自身が10歳の時からこの採石場で児童労働をしてきた。問題意識を持って、関係するマフィアを取材しようとします。
3人が共通して信じているのは「教育」です。ミーラは子どもの教育に熱心で、自分の子どもの成績に悩みながら、学校も取材します。
「男性に決裁権」世界共通の問題
リントゥ 男性記者と女性記者の扱うテーマが違うというのは世界共通の問題ですね。主要メディアでは決裁権があるのは男性。女性に任せておけばいいと思われるのは軽めのテーマ、文化やファッション、食、生活にまつわることです。政治にまつわることは「力量がないだろう」と思われ、担当させてもらえない。それは世界中の女性記者たちが戦ってきた偏見です。
世界中の女性記者が、方向を模索してきました。特に独立系の女性ジャーナリストたちは創意工夫で自分たちなりの方法論を見つけてきました。より手軽に発信できるデジタルが彼女たちに力を与え、信頼を勝ち取ったところが生き残ってきました。カバル・ラハリヤもその系譜にあります。
道のりは大変だと思いますが、日本の女性のメディアにもがんばってもらいたい。最初は限定的な読者かもしれないが、しっかりした仕事をしていれば、確実に成長し、人々に届くものになると思います。
私たちは小さいメディアが大きくなるのをいくつも目にしてきました。ファクトチェックを行い、バイアスのないしっかりとした記事を書いていれば、読者はついてきます。
動機はお金のためではなく
――女性記者が身近な社会を変える発信をし、読者の信頼を得ていく様子が映画でも描かれています。その可能性について聞かせてください。
リントゥ 女性は見方が違うと思っています。地方の道路がガタガタして事故が頻発している場所を取材するとき、主要メディアは「事故が起きました」との一報だけで終わってしまいがちなところ、カバル・ラハリヤの記者は「なぜ事故が多発するのか」「なぜ道路がひどい状況のまま放置されているのか?」と突っ込んでいく。「直せばいいじゃないか」と提言する。
彼女たちの仕事の動機はお金のためではなく、ジェンダーによる差別やカースト制度への異議申し立て、そして地域コミュニティーの生活の向上です。それも取材姿勢に現れていると思います。
スシュミト 政治の世界でも女性首相は、紛争の解決の仕方が独特です。ニュージーランドのアーダーン元首相は、テロでモスクが破壊されたときに、宗教的対立の問題として扱わず、「傷ついた地域をみんなで立て直そう」と呼びかけた。男性の政治家であれば違ったと思います。
一般化したくはないが、これまで撮影してきた女性がリーダーとなった団体、たとえば村の会議、病院、メディアでは、問題解決の方法が男性リーダーとはまったく違い、有意義な解決に導かれることが多いです。
――「カバル・ラハリヤ」があるときから急速に読まれるようになったきっかけは、どんなことですか?
スシュミト インドはいまや中国に次ぐスマホ市場です。中国製の安い端末が出回り、データプランも非常に安いので、国の隅々にまでスマホが行き渡っています。家に電気が通っていない、テレビがない家にもスマホが必ず一台ある。それが、デジタルニュースであるカバル・ラハリヤの閲覧数が伸びた大きな理由だと思います。
読者が彼女たちの活動を信じる
――インドでは、女性が教育を受けられない状態から、独自のメディアを持つまでになったことに対し、バックラッシュはありませんでしたか?
リントゥ 見えるバッシングは簡単なんです。対処が難しいのは目に見えない嫌がらせ。声を上げることが認められなかった女性が、声を上げ始めると、「性格に問題がある」「結婚できない」「就職できない」などいろんなことを言われて、「洗脳」された状態になっていく。
教育を受けていなければ、「そんなものだ」と思ってしまう。けれど、教育を受けた人は一つ一つの偏見に戦うべきだと考えるようになる。カバル・ラハリヤは常に「教育は受けるべきだ」と訴え、「教育によって、女性たちが疑問を持って声を上げる」という姿を実践してきました。
最初は「女性に記者なんかできるのか」と軽んじられたり、無視されたりしましたが、実際に報道によって村に電気が通ったり、道路が舗装されたりすると、地域の人々や読者が彼女たちの活動を信じるようになっていきました。紙媒体だったときの14年の活動の蓄積と信頼感があって、デジタルメディアとして急成長できたのだと思います。
(聞き手・阿久沢悦子)