これはただの悲劇的な偶然ではない———映画評「手に魂を込め、歩いてみれば」

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©Sepideh Farsi Reves d'Eau Productions

あるガザの女性フォトジャーナリストの死。それは希望に満ちた日の翌日だった。

かつて反政府運動で故郷・イランを追われた女性映画監督セピデ・ファルシが、イスラエルのガザ侵攻に心を痛め、現地を撮影しようとする。しかし入国が叶わず、難民キャンプをビデオ通話で遠隔取材することになった。そうして出会ったのが、ガザ在住のフォトジャーナリストのファトマ・ハッスーナ。セピデ監督の娘と同じ24歳で、輝くような笑顔を見せた。この映画は2024年4月から1年間にわたって、人の女性がやりとりした通話記録と、ファトマが撮影した写真、動画、詩、歌などからなる。

映画ではずっと、「ブーン」という低い音が鳴っている。ドローンの音だ。ヘリコプターのパラパラという飛行音も混じる。そして、通話の最中にも大きな爆撃音が鳴る。ファトマが窓越しに外にカメラを向けると、すぐ近くで白煙が上がっている。

©Fatma Hassona

ファトマの居場所は毎回異なる。家、友達の家、シェルター、避難先……。カメラしか持たずに避難したこともある。通信状況は悪く、会話は常に途切れがちだ。

食料は手に入らない。1年の間に、痩せて肌が荒れ、顔色が悪くなっていくことがスマートフォンの画面越しに見て取れる。侵攻から1年半が経った頃、ファトマはしきりに「気が散る」「集中できない」と話すようになる。

セピデは何度か「ガザを離れる気はないのか」とファトマに尋ねている。自身は18歳でイランを離れ、もう戻れない。ファトマはそのたび「私たちにはガザしかない。この土地で生まれ、生きていく」と答える。

がれきの中でサッカーをする子ども、路上に出された扇風機の横に座り込む人……ファトマのカメラは「光」をしっかりと捕え、陰影豊かにガザの人々を映し出す。セピデはそれを映画にまとめ、カンヌ映画祭での上映が決まった。ビデオ通話でファトマをカンヌに招待すると告げた翌朝、イスラエルの空爆によりファトマは命を落とした。

©Fatma Hassona

最後の通話の前に長いメッセージが流れる。

「生き続ける可能性は低い。でも記録し続ける。生きた証だから。世界に伝えたい。私がどう生きたか、どう生き延びたか」。

「手に魂を込め、歩いてみれば」という映画のタイトルは、破壊し尽くされたガザの通りに出る時の様子を、ファトマ自身が表現した言葉だ。家の外に出ることは、死と向き合うこと。ガザは依然としてそんな状況にある。

映画のエンドロールの間もブーンという低い音は鳴り続けていた。

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この映画評を書いた後、中東での取材経験がある日本のあるジャーナリストと話をしていて震撼とした。

カンヌ上映が決まり、招待を受けた、その一筋の希望が輝いた直後の死は、観客の心を強く揺さぶる。しかし、その人は「これは悲劇的な偶然ではない」というのだ。

「パレスチナから発信する人には追尾がついていて、もっともダメージを受ける日に、狙われて殺されたのだと思う」と。

その理由として、2点を挙げた。

映画を見て、ただ若い女性ジャーナリストの死を悲しむだけではなく、こうした殺戮の構造にも私たちは目を向けなければならない。

プレスシートに掲載されたファトマのインスタグラムの文章

(2024年8月3日)

私は毎日、行き先も決めずに街へ出かける。ただ、私が目にするものを世界にも見てもらいたいから。私は、この人生の瞬間を記録する。私の子どもたちが聞くかもしれないし、聞かないかもしれないけど、この歴史を世界に遺したい。

私たちはここで毎日、さまざまな形で、さまざまな色で死んでいる。苦しむ子どもを見るたびに、私は千回死ぬ。粉々になり、灰になる。私たちがこうなったことが、この無意味さが、毎日私たちを食い尽くすこの怪物たちが、私の心を痛める。

(中略)

死は避けられないけど、もし私が死ぬなら、響き渡る死を望む。速報や数字の羅列にはなりたくない。世界中に知られる死、永遠に続く影響、時間や場所に埋もれることのない不滅の姿を望んでいる。

手に魂を込め、歩いてみれば
監督:セピデ・ファルシ
プロデューサー:ジャヴァド・ジャヴァエリー
2025年/フランス・パレスチナ・イラン/113分
ヒューマントラストシネマ有楽町、アップリンク吉祥寺などで上映中