《平和の少女像》はなぜベルリンで座り続けているのか 

記者名:
コリア協議会 韓静和

「慰安婦」問題を日韓問題としか見ていない? ベルリンの少女像に加わった意味とは?

日本政府の要請を受け、ドイツのベルリン市ミッテ区が撤去を求めている「平和の少女像アリ」。その期限が9月28日に迫っています。撤去要請に対しは設置から4年間、抗議活動が続いてきました。研究者は「ドイツでは少女像は日韓関係以上の意味を持っている」と言います。一緒にその意味を考えてみましょう。

ベルリンの《平和の少女像》“アリ”をめぐる主な経過
2020年9月28日ドイツ・ベルリンのミッテ区に《平和の少女像》”アリ”を設置。
9月28日加藤勝信官房長官が記者会見で少女像の撤去を要求。10月2日、茂木敏充外相が独ハイコ・マース外相にテレビ電話で少女像の撤去を要請。
10月7日ミッテ区撤去命令。これに対し、抗議の声明、メール、デモ、署名などが起こる。韓独シンクタンク「コリア協議会」はミッテ区の取り消し決定の効力停止を行政裁判所に申請したり、区長と協議を続行。
オマス·ゲゲン·レヒツ(極右に反対するおばあさんたち)が毎週金曜日、少女像の前で沈黙デモ、地元ドイツの女性団体「クラージュ(Courage) のデモなど起こる。
10月13日ミッテ区は「当面の間、認める」とし撤去命令を撤回。期限付きで設置されることに。
12月ミッテ区議会は、少女像の永久設置を求める決議を区に提出。
2021年2月19日「極右に反対するおばあさんたち」主催でハーナウ右派銃撃事件の犠牲者追悼式を少女像の前で開催。こうして少女像は性暴力被害者だけでなく、人種差別や排外主義の攻撃に遭った犠牲者の追悼の場となっていく。
2022年4月28日岸田文雄首相が日独首脳会談で独オラフ・ショルツ首相に、少女像の撤去を要請。
9月期限切れるも、区は設置を容認。
2024年5月カイ・ヴェグナー ベルリン市長と上川陽子外相会談。
7月19日区長はコリア協会に期限の9月28日までに撤去しなければ罰金を課すと伝えた。
その直後から、日本の市民団体「日本軍『慰安婦』問題解決全国行動」がベルリン市長とミッテ区長宛に公開書簡を送るための署名を現在も集めている。
*日付は現地ドイツによる。

2020年9月28日にドイツ・ベルリンのミッテ区に立てられた《平和の少女像》(以下、少女像)は、バーケン通りとブレーマー通りの交差点、庶民が居住する静かな住宅街に座っています。右側は花屋、向かい側は小学校と家庭菜園体験学校の庭園、後ろには公園があります。地下鉄の駅から近く、通勤している人もよく通る場所です。そこで人々と触れ合ってきました。

ベルリンのミッテ区に立てられた〈平和の少女像〉とその周辺。提供:コリア協議会 イム・ソナ

ところが、設置当初から日本政府からの「撤去」要求は続き、日本の右派からの妨害メールも相まって、ついにミッテ区長は今年7月、設置の中心である韓独シンクタンク「コリア協議会」に対し、9月28日には自ら撤去するよう求めたのです。撤去しなければ罰金を課すとまで言っています。

日本のマスコミでは日本政府の少女像「撤去」要求ばかりが報道されているため、実際、ドイツで少女像がどのような意味をもち、人々と繋がっているのかは全く見えてこないと言えるでしょう。1

ドイツのライプツィヒ大学の東アジア研究所・日本学科で教鞭をとるドロテア・ムラデノヴァさん(38歳)は、「記憶文化」、サバイバーが語れるようになったエンパワーメント(支援運動)の視点から《平和の少女像》に注目し、研究・教育活動に取り組んでいます。

ドイツの記憶文化とは、ホロコーストの記憶、つまり加害国・加害者としての歴史という記憶によって、社会の一員としてのアイデンティティが形成されていることを指します。ホロコーストの記憶は、さまざまなかたちで政治と社会を方向づけています。

この夏、調査活動のため日本に滞在している機会にお話を伺いました。

ドイツのライプツィヒ大学のドロテア・ムラデノヴァさん。「記憶文化」とエンパワーメントの視点から《平和の少女像》に注目している。=東京、2024年8月12日、撮影:岡本羽衣

1  なぜ少女像に注目するのか

ドロテアさんはなぜ少女像に注目するようになったのでしょうか? 

少女像は、世界のあちこちに立てられながら複数の意味合いが加わって、私はいわば“意味合いの鍋”のようだと思うんです。

2011年、韓国・ソウルの日本大使館前に、韓国挺身隊問題対策協議会(現・日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯)の呼びかけた市民の募金で作家キム・ソギョンさんとキム・ウンソンさんの《平和の少女像》が立てられた時には、日本軍「慰安婦」被害の歴史、そして証言をしたサバイバーたちがこの場所で水曜デモを1000回続け、人権活動家になったことに対する敬意が込められていました。

その後、戦時にとどまらず、平時における性暴力被害とも繋がり、韓国フェミニズムの新たな動き(#MeToo運動など)も象徴するようになり、さらには世界各地で、その地域ごとにローカルな歴史とも繋がっています。つまり、女性の人権、性暴力被害というグローバルな意味と地域の歴史というローカルな意味の両方を獲得してきました。そんな意味合いと一緒に少女像は今も移動を続けている、さまざまな人と繋がりながら……これが非常に面白い。魅力的なんです。

《平和の少女像》は“意味合いの鍋”となり世界に広がっている。ドロテアさんによるイメージ。

2 《平和の少女像》はドイツでどう広がっているのか

ドイツではブロンズの少女像の設置のほか、美術館展示もありますよね。撤去や展示中止も含めて経緯を教えてください。

地図を作りましたので、まとめて説明します。《平和の少女像》にはブロンズ像とFRP(強化プラスティック)の2種類があります。

計画はあったものの中止になったのは①フライブルク市(2016年)、③ボンの女性博物館(2018年)。撤去されたのは⑪カッセル大学(2022年設置、2023年撤去)です。

ブロンズの少女像は、2017年に②レーゲンスブルク市近郊のヴィーゼント村、2020年に⑥フランクフルト・韓国教会敷地内、そして⑦ベルリン・ミッテ区に設置されました。

ベルリンの少女像は「アリ」と名づけられました。「アリ」とはアルメニア語で「勇気ある女性」の意味。アルメニアで虐殺を生き延び、勇気を奮って被害をカミングアウトした女性たちの呼び名でもあります。
設置の主体となったのは、韓独シンクタンク「コリア協会」で、そのまわりにはさらに緩やかなイニシアチブ(「AG Trostfrauen 『慰安婦』」)があり、メンバーは移民歴の有無を問わず、戦時性暴力に関心のある人で、ドイツ系、日系、韓国系、コンゴ系、フィリピン系などがいます。さらに、女性やマイノリティの権利に関するキャンペーンを行う「少女像連合」が設置を支援しています。日本のマスコミではコリア協会を「韓国系団体」と紹介することが多いですが、これは単純化された言い方であり、実際はもっと広範な地域の人々が自主的に参加しているのです。

ドイツでは各地の美術館でも少女像は展示されています。2018年に④ハンブルグのドロテ・ソル・ハに設置されました。
2019年には象徴的な事件が2つ起きました。フィリピン・マニラの「慰安婦」像の撤去と、国際芸術展あいちトリエンナーレ(以下、あいトリ)による「表現の不自由展・その後」の展示中止事件です。芸術の自由を阻むあいトリの事件は、ドイツ社会でも否定的に捉えられ、日本の印象は悪くなりました。しかし皮肉なことに、この事件によってかえってドイツ社会では少女像への関心は高まりました。

FRPの少女像は、2019年6月、⑤ボーフム市・工業博物館、8月にはベルリンのGEDOK(女性美術協会)主催で展示された後、コリア協議会が開館した「戦時性暴力博物館」で、「ヨンギ」(勇気という意味の韓国語)と名づけられ今も展示されています。同館では、ドイツ国防軍による戦時性暴力も取り上げ、性差別、植民地主義、家父長制、人種差別などの克服について学習できる空間もあります。

2021年には、⑧国立のドレスデン民族博物館で「言語喪失—大声沈黙」展に展示されました。同展は、集団的なトラウマのため生じた沈黙と、話すことができなかった時間を、社会がどのように克服し、治癒していくのかにスポットを当てました。スレブレニツァの虐殺、アルメニア人大虐殺、ホロコースト、アフリカにおける植民地支配なども一緒に展示しました。2021年に⑨ミュンヘンの「Art 5」で「アートと民主主義」展が催されました。

2022年から2023年にかけては、フェミニズムの問題意識を持ち、政治的な目標を追求し表現する、世界50カ国・約100のアーティストが参加した⑫ヴォルフスブルク美術館「エンパワーメント展」で、展示されました。

3  ライプツィヒ大学で行われた教育プログラム

少女像を教育プログラムに組み入れたのが、ライプツィヒ大学のシュテフィ・リヒター教授(日本学科)とドロテアさんなのですよね。具体的にどのような成果があったのでしょうか。

2022年4〜7月(夏学期)に大きく3つの教育プログラムを実施しました。

❶連続講義(全7回の公開授業)は、歴史を包括的に理解してこそ、少女像と関わることができると考え、歴史、法学、社会学など多彩な分野の講師に来てもらいました。中にはドイツ国防軍や強制収容所の売春宿、ソ連の女性兵士の体験などにも目を向けました。

講義室に少女像を連れてきたことで、学生からは「戦争と性暴力の問題は抽象的だったが、この像のおかげで急に具体的なものになった」という感想も出ました。

❷ゼミでは3カ月かけて「慰安婦」制度や被害者たちの歴史を学びました。

❸演劇学部のリードで行われたシンキング・ラボ。6月にライプツィヒのマーケット広場で開催された「女性のフェスティバル」に参加し、少女像を使ったパフォーマティブ・アクションを実施。学生たちはステッカーやバッジを作ったり、即興パフォーマンスをしました。

学生たちが少女像と一緒に「ライプツィヒ・ナチ強制労働資料センター」へ

学生たちは少女像を連れて、「ライプツィヒ・ナチ強制労働資料センター」にも行きました。
このセンターは、かつてザクセン最大の兵器メーカーであったHASAGの敷地内にあります。何千人もの民間人強制労働者、戦争捕虜、強制収容所収容者の戦時中の体験を記録・記憶する場所です。
少女像をこの場所に運ぶことで、私たちは個々のローカルな出来事を第二次世界大戦の文脈の中で結びつけることができました。


日本政府は少女像を「日本を永続的に非難する象徴のようなもの」として撤去を要求しています2が、ライプツィヒ大学の教育実践の結果やベルリンの少女像と人々との交流から見ても、そうした捉え方は的外れです。
歴史を教えることへの恐れには根拠がないと思います。ドイツでは第二次世界大戦中の戦争犯罪は必ず語るべきだという「記憶文化」が非常に強い。ドイツの学校では自国の戦争犯罪についてものすごく詳しく勉強しているのに対して、日本はドイツの同盟国だったのに、日本政府が自国の戦争犯罪を積極的に教えていないと聞くと、違和感を抱きます。日本政府はなぜ学校で教えないのか。教えなければ逆に、歴史の一部が隠されているのではないかとドイツ社会の中で疑いが生まれ、それが日本への不信感にも繋がります。女性の人権侵害や加害の歴史も積極的に教えた方が、市民の信頼度を高めると思うのです。

4 ベルリンでは少女像は日韓問題とは離れた独自の存在

少女像がベルリンに建てられて4年、ドイツ社会ではどのような意味合いが付加され、人々と繋がっているのでしょうか?

ドイツの公共の場には、少女像のようにアジア系で、人権やフェミニズムを象徴するモニュメントはありませんでした。

2021年2月、右翼過激主義との闘いと寛容を求める団体OMAS GEGEN RECHTS(極右に反対するおばあさんたち)は、少女像の前で、人種差別に反対するデモをしました。1年前ハーナウで起きた右派銃撃事件の犠牲者たちの追悼集会をしたのです。この事件はドイツ人男性が水タバコバーを襲撃し、さまざまなルーツの移民を含む9人を殺害したというもの。容疑者は人種差別的な犯行声明を残し、母親を殺し自殺しました。バーの非常口は不法移民を阻止するために警察によって封鎖され、犠牲者には逃げ場がありませんでした。
「極右に反対するおばあさんたち」は、設置以来、月1回程度、「慰安婦」犠牲者を追悼するため少女像の前に集まっています。結果的に、戦時性暴力、性差別による暴力と人種差別による暴
力を結びつけて、告発しています。

同年3月には、米ジョージア州アトランタで起きた連続銃撃事件の犠牲者追悼式が開かれました。襲われたのはアジア系のマッサージ店で、被害者はアジア系アメリカ人女性6人を含む8人。アジア人に対する人種差別でした。こうして少女像が立つ場所は性暴力被害者だけでなく、人種差別や排外主義の攻撃に遭った犠牲者の追悼の場となっています。

これらのことは「慰安婦」問題を日韓問題としか思っていない人には理解できないかもしれません。ドイツでは、少女像は日韓問題とは離れた独自の存在になっているのです。

「極右に反対するおばあさんたち」が開いたハーナウ銃撃事件犠牲者の追悼集会。写真:コリア協議会 韓静和

5 ドイツのポスト移民社会化の中で加わった反人種主義、脱植民地化

人種差別や排外主義の攻撃に遭った犠牲者の追悼の場にもなっているという話は初めて聞きました。「極右に反対するおばあさんたち」はカッコイイですね! 
こうした意味合いが付加されたのは、どういった文脈があったからなのでしょうか?

それを説明するにはまず、私自身の立ち位置を話しましょう。私はブルガリアで生まれ、6歳の時に両親に連れられてドイツに移住しました。子どもの頃は“ドイツ人になりたい”と思って訛りのないドイツ語を話せるよう必死で勉強しました。ルーツを隠そうとしていたんですね。でも1990年代にネオナチの暴行が増えるにつれ、「ドイツの歴史は自分の歴史なのか?」という疑問を持つようになりました。そこからナショナルな枠組みを越えなければならないと思うようになったのです。ドイツには私のような移民がとても多いのです。

そもそもドイツの記憶文化とは、「ホロコースト(ユダヤ人虐殺)を記憶すること」であり、「私たち」の祖父母がホロコーストに加担したという反省が込められていました。「私たち」とは、ドイツ人の血が流れている者を指します。すると、移民は「記憶の共同体」の一員ではない。つまり、移民は「記憶の市民権」を得られていないことになります。

そこで起きた転換を記憶文化の「ポスト移民社会化」と言います。移民がドイツの歴史と関わりながら、自らの歴史をドイツの集合的な記憶に刻み込むことによって、集合的記憶を変容させていることを指します。この転換を経て、ドイツ政府は2001年に初めて移民社会であることを認めたのです。

現在、「移民歴のある人」(1950年以降に自らあるいは両親と共に現在のドイツに移住してきた人)は、ドイツ全体では4人に1人です。親のどちらかが移民である場合も含めると、ドイツ全体で29パーセント、ベルリンは40パーセント、ミッテ区は57パーセントとなります。

だから、《平和の少女像》がどこに立っているのか、その場所はとても重要なのです。

ドイツには記憶文化があるにもかかわらず、人種差別や反ユダヤ主義がいまだに蔓延しています。だからこそ90年代以降、ハーナウ銃撃事件など人種差別攻撃も起きている。最近では、ザクセン州の州議会選挙で移民排斥を掲げる極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が議席の30%を獲得しました。

しかし一方、こうした右派の台頭に対しては、数万の人々による右派への反対デモが各地で起きています。その一つが下の写真です。

2024年1月21日、ライプツィヒで、人種差別、ファシズム、AfDに反対し、民主主義を求めるデモに6〜7万人が集まった。 撮影:ドロテア

すごいですね。右派の台頭は世界各地で起きていて、それに抵抗する人々も世界中にいると言うことがわかります。その流れ(文脈)の中に少女像もいる、ということがよくわかりました。

ベルリン・ミッテ区の《平和の少女像》は、戦時・平時の性暴力、フェミニズム、反人種主義、脱植民地化など、さまざまなトピックを結びつける場となっています。さらに、移民の人々が自分たちの歴史を語ることで、ドイツの記憶文化は拡大されます。つまり、移民の人々も「記憶の市民権」を獲得することになっているのです。

ベルリン・ミッテ区の《平和の少女像》はさまざまなトピックを結びつけている。ドロテア作成


  1. 日本の外務省は、「慰安婦」問題について「日本政府は、これまで日本政府の取組や日本政府の立場について、国際的な場において明確に説明している」としている。
    一方、国連女性差別撤廃委員会は2016年3月、対日本審査結果(総括所見)を公表。日本政府の対応が国際人権基準に照らし不十分と厳しく批判し、日韓「合意」に対しても「被害者中心のアプローチを十分に採用していない」と批判し、「被害者/サバイバーの見解を十分に考慮し、彼女たちの真実・正義・被害回復に対する権利を保障」するよう勧告した。
    日本のマスコミの中では神奈川新聞がベルリンの少女像の撤去要請をめぐる記事を継続して掲載している。注2参照。 ↩︎
  2. 「独に慰安婦モチーフの「アリ」像 撤去命令に広がる批判」『神奈川新聞』2024年8月10日付。 ↩︎

*本記事は、インタビューに加え、8/10一橋大学の国際ワークショップ「ベルリンの「平和の少女像」から考える」、9/1新時代アジアピースアカデミー緊急オンライントークの取材を踏まえまとめたものです。

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