つながる「黒い雨」×「甲状腺がん」 広島と福島、 時間、空間、世代を超えて内部被ばく者が連帯

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福島第一原発事故から14年。広島の「黒い雨」被爆者と福島の甲状腺がんに苦しむ若者がつながった

広島で原爆投下後の「黒い雨」に打たれた80代と、福島第一原発事故後に甲状腺がんを発症した20代。

経験したのはともに、空気や水、食物を通して放射性物質を体内に取り込む「内部被ばく」です。

時間と空間を超えた両者を結ぶ集会「つながる、黒い雨×甲状腺がん 沈黙を乗り越え、封じ込めを破る」が3月6日、東京・青山学院大学で開かれました。

「黒い雨」訴訟の原告高東征二さん、「311子ども甲状腺がん」訴訟の原告、ちひろさん、こはくさん(ともに仮名)が参加し、体験を話しました。

『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)の著書があるジャーナリスト小山美砂さんと、原発事故被害を追うOur Planet-TVの白石草さんが企画し、実現しました。

黒い雨訴訟 広島に原爆が投下された直後に降った「黒い雨」による被ばく問題を訴えた訴訟。2015年、国が定めた援護対象区域の外側で雨を浴びるなどした住民たちが、「被爆者」認定を求めて広島県と広島市を相手に提訴。2020年広島地裁、2021年広島高裁とも「内部被ばく」の危険性を指摘し、原告全員を「被爆者」と認定した。

311子ども甲状腺がん訴訟 東京電力福島第一原発事故による放射線被ばくが原因で甲状腺がんを発症したとして、事故当時6〜16歳だった福島県民が、東京電力に損害賠償を求めた。2022年に東京地裁に提訴し、現在も係争中。原告は、通常100万人に1〜2人程度の小児甲状腺がんが、原発事故後、福島県で400人近く見つかっているのは被ばくの影響と主張している。

80年目、問われる内部被ばく 

はじめに白石さんが、企画の意図を話しました。

「今年は戦後80年です。核エネルギーが開発されて80年ということになります。それを考えた時に乗り越えないといけないことがある。黒い雨訴訟では、地裁、高裁とも全員勝訴という判断が下されました。しかし、黒い雨による内部被ばくの事実は否定されていて、だけど原告が高齢なので上告しないという判断でした。

80年前に原爆が投下された後、アメリカの原爆傷害調査委員会(ABCC)が被爆者の研究を重ねてきた中で、外部被ばくは認められています。しかし、内部被ばくといって呼気、水、食べ物から入った被ばくはずっと認めてきていない。年100mSV以下は影響がないと否定されてきているんですね。

2011年の福島第一原発事故後、福島県に入って健康影響を取材してきました。いま、福島で20代の原告が因果関係を認めさせて裁判に勝ち、国が恒久的な制度を作っていくとしたら、福島の問題だけでは乗り越えられないな、と思いました。広島と長崎で乗り越えられない限り、乗り越えられない。

被爆者/被ばく者は、広島、長崎、福島、ビキニと分断されている。一方で「健康に影響がない」という方はつながっている。今まで80年間核エネルギーによって被害を受けた人たちがつながることが大切だと考えました」

4歳で被爆、小3でリンパ節を3回も切開

次いで高東さんが基調講演をしました。

「脳梗塞をしてからなかなか言葉が出てこない」と言って、用意した原稿を読んでいきました。

高東さんは1945年8月6日、4歳6ヶ月で爆心地の西9㌔にある旧観音村(現・広島市佐伯区)で、原爆の被害に遭いました。

「強烈な光とドーンという音がして、それから東の空が赤、黄、緑とイルミネーションのように色が変わっていきました。軒下に居たのか、黒い雨を浴びた記憶はありませんが、あたりが薄暗くなり熱風が吹いてきました。その後、手や足にできものができて治りませんでした。小学校3年生の時に脇の下や鼠径(そけい)部のリンパ節が腫れ、3回も切開してもらいました。鼻血が出たり、下痢したり、学校の朝礼で倒れたりしました。周りにも病気で苦しんでいる人が多くいました」

2002年9月、広島市佐伯区に「佐伯区黒い雨の会」が結成されました。高校教諭を退職して間もない高東さんも結成を呼びかけたひとりです。

原因も分からずに死んでいく

「黒い雨被害者の多くは自分がよく病気をするのは生まれつき(身体が)弱いから、仕方がないと無理に思い込み、病院にもいかず、まわりの人に迷惑をかけないよう死ぬのを待っていました。多くの人が原因も分からず死んでいきました。そのことに高校の同級生、小川泰子さんが気づき、私も地域を訪ね歩いたことが会をつくるきっかけになりました」

「結成総会の時、被爆当時小学校5年生だった男性が、学校の裏山に下草刈りに行って、ピカッと光って雲が流れ、黒い雨がたたきつけるように降ったことを克明に話しました。しばらく間を置いて、彼は『私はがんにかかっています、やがて脳に転移し死ぬことになっています』と続けました。40人の参加者は静まり返りました。その後、黒い雨にあった時の様子や健康状態を堰を切ったように次々と報告し始めたのです。それまで黒い雨を浴びた人は結婚できないとか、子や孫に遺伝するといわれ、タブー視されていたのです」

国「内部被ばくによる健康影響」認めず

高東さんらは年会費1000円で会員を募り、「黒い雨」ニュースの発行、署名集め、聞き取り調査をし、広島市との交渉では担当課長とのやりとりを掲載しました。会員の多くも実名で被害を寄せました。

2008年、広島市、広島県は約3万6000人を対象にアンケートを送付、2万7000人から回答を得て、そのうち891人とは面談もしました。健康状態と黒い雨の降った場所や時間、降雨の形状などについて詳しく聞き取りました。回答は広島大学原爆放射線医科学研究所の大瀧慈教授が解析し、黒い雨が降ったと思われる「大瀧雨域」を作成。2010年7月、大瀧雨域に含まれる広島市のほか2市5町が、全域を被爆者手帳の対象となる「第一種健康診断特例区域」に早急に指定するように国に要望しました。しかし、国の検討会は大瀧雨域において、初期放射線や誘導放射線は「実質上ゼロと見なしうる」「内部被ばくを含め原爆由来の放射線により健康影響が生じたとする考え方は支持できない」と結論づけました。

高東さんは「このままいくと、黒い雨の被害者はなかったことにされてしまう」と感じました。

実名で手記「悪いことは何もしていない」

聞き取り調査の相手に実名で体験談を発表してもいいかときくと、「悪いことは何もしていない、どこに出してもらってもいいですよ」と言われ、実名での手記を集めた「黒い雨 内部被曝の告発」として出版しました。表紙には証言者の顔写真がずらりと並んでいます。7000冊を印刷して、手渡しで売り尽くしました。

高東征二さん=東京都内

高東さんたちは放射線影響研究所(放影研)の理事長大久保利晃氏に話し合いを申し込みました。

大久保氏は「広島に投下された原爆についてのデータはほとんど爆心地から2kmのもので、遠距離被ばくや内部被ばくのデータはありません」と言ったそうです。

「放影研は初期放射線だけを調査したのだとわかりました。今でも放影研のデータが国際放射線防護委員会(ICRP)の指標の基礎になっているし、残留放射線のデータはないから無視できるという結論にされたのではないかと思いました」(高東さん)

もう裁判で決着をつけるしかない。

2015年11月4日、県と市に被爆者手帳の交付を求めて64人が提訴しました。原告はのちに84人にふくらみました。裁判ではどんな状況にいた人が被爆者と認められるかが争われました。被爆者援護法1条第3号は、「身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあったもの」と定義しています。内部被ばくの影響は確定していないものの、原告たちは身体を壊し、放射能の影響を受ける事情にあった、と訴えたのです。

谷川の水を汲み、飲んだ

「被爆当時、田舎の人は朝、谷川まで水を汲みに行って、家の瓶に入れて使っていました。8月6日も7日も8日もそうでした。(放射性降下物の)灰のかかった庭の野菜を特に注意するでもなく洗って食べていました。裁判では放射性物質が身体にどのように入り込んできたか、ひとりひとり聞き取り調査をされました」

高東征二さん=東京都内

原爆投下から1ヶ月後の1945年9月、気象技師の宇田道隆氏らが、原爆投下に伴う雨や風の状況を調べ、同年12月に報告書にまとめています、黒い雨の降った地域を大雨地域(東西11km、南北19km)と小雨地域(東西15km、南北29km)に分け、大雨地域を健康診断特例地域に指定しました。

高東さんは言います。

「宇田氏が当時使用していたメモ帳には170件弱の聞き取り記録があるが、ほとんどが旧広島市内で、原告がいた場所では聞き取りをしていません。宇田論文を根拠にした現行制度は被害の実態を反映していない、非科学的なものと言えそうです。それでも、苦しんできた黒い雨被害者は、科学的合理的根拠が不十分だとして、手帳の交付を拒否され続けました」

原告84人全員が11疾病のどれかに該当

地裁の審理が終わるころ、原告全員が診断書をとり、申告しました。

「みんな被爆者手当の対象となる11疾病の中のどれかに該当していました。84人全員ですよ? 放射性微粒子がいかに広範囲に飛んでいるかわかります。福島の原発事故も放射性物質が遠くまで飛び、内部被ばくを起こしているのは同じことです」

2020年7月、広島地裁は全員を被爆者と認める判決を出しました。

2021年7月、広島高裁は国の控訴を棄却し、再び原告全員を「被爆者」と認めました。

放射性微粒子は40kmも飛んでいる

高東さんは裁判後、各地で黒い雨相談会を開き、被爆者健康手帳の申請書の書き方を教えるなど、取得を支援してきました。

「新基準に基づいて被爆者健康手帳の申請が2025年1月末で7462人、認定が6793人です。却下378人。高裁の判決通りなら却下は出ないはずなのに、降雨線で分断したり、原告が黒い雨に触れたと言っているのに、証人がいないと言って却下したり、国の姿勢は全く変わっていません。却下された人が原告になり、第二次黒い雨訴訟が立ち上がっています。放射性微粒子は爆心地から西に40kmも飛んでいます。現在の降雨域よりもっと遠くに飛んでいるのです。放射性微粒子が一個でも身体に入り、身体にとどまれば、放射線を定期的に出し、DNAを壊し、やがてはガンなどになります」

高東さんはこんな言葉で講演を締めくくりました。

「核兵器は使わないで。原爆は落とさないで。黒い雨被爆者の切なる願いです」

人生をかけて闘う若い人を応援

高東さんは今年3月3日、2011年の福島第一原発事故後初めて、福島県を訪れました。

小山さんに福島の印象を問われ、高東さんは次のように話しました。

「広大な原野が続いて、冬だから色んなものが枯れている。春だったら芽を吹いて生き生きとしているんでしょうが、この豊かな自然が放射能まみれになっているのかと思うと、とても残念に思いました」

3月5日に東京地裁であった甲状腺がん訴訟を傍聴し、原告とも交流しました。

「甲状腺がん訴訟の原告は若いのに友達もできないし、将来の夢も実現できない。それでも、人生をかけて闘っている。彼女たちだけじゃなくて、その後ろにたくさんの人がいる。それを思うとじっとしておれない。で、福島へ行こう、東京へ行こうと決意し、私がいまできることをやるべきだと思って、広島から来ました」

甲状腺がん訴訟の20代原告の証言

続いて甲状腺がん訴訟の原告2人が横断幕の向こうから証言しました。こはくさん(20代前半)と、ちひろさん(20代後半)です。「原発事故当時の状況」、「がんと診断された時のこと」「裁判をしようと思った理由」の3点について話しました。

◆こはくさん 

「被ばく者」という枠組みに入れられ区別された

事故当時は幼稚園生でした。あまり記憶はないんですが、(避難退避時に放射性物質が身体や衣服についていないかを検査する)スクリーニング場に行った時に、自分の出身地を教えたら、「靴を脱いでください」と言われました。たしかに検査する人も放射能が不安な気持ちはわかるんだけど、同じ人間なのに、「被ばく者」という一つの枠組みに入れられて区別されちゃっていると感じたことが印象に残っています。
自分ががんになったことに特に驚きはなかったんですが、そのときまだ中学生で、勉学に支障が出ることがとても不安でした。
裁判をしようと決めた理由は、そのとき、まだ子どもで中3か高1ぐらいで、そのときはまだ、裁判というものがよくわかっていなくて、祖母がこういう裁判があるよと教えてくれて、やってみたら自分も変われるかもしれないなと思って、興味を持って裁判をすることにしました。

ちひろさん

がん告知の医師「原発事故とは関係ありません」

事故当時は中学3年生で、当時は祖母の家が全壊になってしまったので引っ越し作業や食材の買い出しに行っていた。
がんと診断された時。紫になっているがん細胞の写真を先生から見せられて、「これが甲状腺がんです」という説明を受けました。2言目で「気になっているかもしれませんが、これは原発事故とは関係ありません」と言われました。それがとても衝撃的でした。その後で、がんになった人に向けた県民健康サポート事業が始まり、その説明を受ける時にも保健師さんから「このサポート事業はまだ公にはしていなくて、原発事故とは関係ない」と言われました。
がんになる前から、事故当時、枝野(幸男)官房長官が「ただちに健康に影響はない」、日本にオリンピックを招致するために安倍(晋三)首相は「福島は事故の影響はない。アンダーコントロールだ」と言いました。そのことにとても不信感を持っていました。事故から4年目に、福島県立医科大学に行ったとき、甲状腺がんの検査も2巡目、調査も何も進んでいない段階で、「原発事故と関係がない」と断定していることにさらに不信感を持ちました。当時、福島県立大の内部被ばく検査は、小さな子どもたちであふれかえっていて、ほんと幼稚園みたいで、にぎわっていて異様な光景でした。私よりもかなり小さな子どもたちががんになっているということを目の当たりにして、これは絶対に因果関係を認めさせて、がんになってしまった子どもたちを救済しないといけないと思って、裁判を決意しました。

「甲状腺がんに苦しむ子ども」の一節に政治家が抗議

小山さんは「黒い雨の被害者にも、誹謗中傷や無言電話があった。甲状腺がん訴訟を闘ってきて声が上げにくいような外圧はありましたか?」と尋ねました。

ちひろさんは「外圧を感じることは結構たくさんあったなと思います。印象的だったのは2022年に小泉純一郎氏ら日本の首相経験者5人がEU(欧州連合)に書簡を送ったんですね。その書簡の『甲状腺がんで苦しんでいる子どもがいる』という一節に対して、岸田首相や高市早苗議員ら名だたる人が抗議し、その後福島県議会や福島県知事も『それは間違っている』と抗議文を出したんですね。それが一番印象に残っています」

小山美砂さん(右)が高東さんと緑色の横断幕の後ろにいる甲状腺がん訴訟の原告の話をつないだ=東京都内

裁判費用のクラファンで沢山の応援感じた

小山さんは「訴訟が始まって3年間、声を上げ続けて大変だったこと、よかったことを上げてください」と聞きました。

こはくさんは「確かに1年目はこの裁判を盛り上げていこう、がんばろうというモチベーションはまだあまりなかった。3年目になると、たしかに大変なこともいっぱいあるんですけど、6人の原告と仲良くなっていったりして、自分もがんばらなきゃいけないなという考えが育ってきたと思います」。

ちひろさんは「裁判を始める前は、福島の中では復興に水を差す言葉をよしとされない雰囲気があったので、この問題を誰も問題視していなくて、批判を浴びるだろうと覚悟をしている中で、記者会見をしました。沢山の人が記者会見に来てくれて、傍聴にも3年経った今でも200人以上がきてくれて、沢山の人が応援してくれているとわかって本当によかった。もう一つ感謝したいのは、私たちは子どもなので、弁護士資金が中で、クラウドファンディングで支援金を集めました。期限前にあっという間に1000万円、最後には1700万円が集まった。本当に感謝でした」。

小山さんは高東さんに、実名顔出しで被害を訴えた勇気をどうして持てたのか、訴え出ることは辛くなかったか、について聞きました。

高東さんは「黒い雨ニュースをつくったんですね。特に行政との話し合いでは、行政の人も映すし、原告の顔も映す。隠さないで、名前もきちっと書いて。だんだんみんながえらくなって、内部被ばくが理解できて、抵抗がなくなった。この本を作るときにビクビクしたんですね。顔出していいもんじゃろか?と恐る恐る聞いたら、わしゃ何も悪いことをしていないし、嘘もついていない、どこに出してもろてもいいと言われてこの本ができたんです」と話しました。

真実を貫き通したら、それは通る

小山さんは広島地裁の勝訴の時に、「真実の訴えは届くと実感した」といいます。その黒い雨訴訟の歩みが福島の甲状腺がん訴訟の原告の背中を押すものであれば、というのは高東さんの願いでもあります。

甲状腺がん訴訟の原告たちは裁判をしていることを友達にも言えないでいます。

高東さんは、こはくさん、ちひろさんに向けて、エールを送りました。

「黒い雨訴訟で、真実を貫き通したら、それは通るんだということを知りました。私たちは病気だらけの人生で先が見えなかった。だんだんとみなさんが賢くなって、放射性物質によって内部被ばくが起こる仕組みがわかっていく中で、何でも言えるようになっていって、現在に至っています」

「お二人が友達にも言っていない。ひとりで耐えてきたと思うとかわいそうですね。言えるところから言って、力を貸してもらう、輪を広げていくことが大事だと思いました」

こはくさんは「原告として同じような境遇の子と会って、話して、不安を共有できる。よかったなと思う。同じように苦しんでいる人たちと輪が広がって一緒にやっていけたらなと思っています。私たちに何ができるか?を広く考えていきたいなと思っています」と返しました。

最後に高東さんが広島と福島をつなぐ決意を述べました。

「今回、広島と福島をつなぐことができた。なんとか今までの苦労が実を結んで、そんなことをするつもりはなかったのに、できている。みなさんにほめられたので、これからも一所懸命がんばらにゃいかんなと思います」