私は弱い記者だった

記者名:

悩んでいるとき、自分の気持ちを整理するように書きました。

 新聞社を退職し、一人でやっていこうと決めたとき、私はやっと休職前から抱えてきた鬱を追い払うことができた、と思った。やっと終わったんだ、と。
 
 だが最近、本当にそうだろうかと不安になることがある。
 
 悔しさや、苦しさ、ねたましさがわき上がることがある。見返してやりたい、という気持ちがふとよぎる瞬間がある。
 
 自分が大切だと感じることを組織の論理に依らず伝えたい。
 そう思って独立しようと決めたのに、もしかすると「見返したい」という思いが私にはあるのだろうか。自分で自分が分からなくなった。

自分事であり、社会的なこと

 記者をしながら、自分が大切にしてきたこと、目標にしてきたことが大きく分けて三つあった。
「声なき声を伝えたい」
「人権を守りたい」
「生きやすい社会にしたい」

 特に、マイノリティやジェンダーについて、力を入れて記事を書いていた。それは私にとって自分事であり、社会的なことでもあった。
 
 声なき声、人権、生きやすい社会―新聞記者なら当たり前に目指すようなことかもしれない。けれどそういう記事を書くたび、年々、社内で咎められることが増えていった。おおむね「偏っている」という理由からだった。
 
 さまざまな否定の言葉を、社内のさまざまな人から浴びるうちに、いつしか自分の目指す記事と自分が生きる現実との隔たりに、適応できなくなっていた。

まひしていく人権感覚

 私は新聞社の伝統からすると「足りないキャリア」の持ち主だった。子育てのため早く帰っているという負い目もあった。

 だから私は、自分の人権を踏みにじられても、何も言えなかった。

 私だけではない。萎縮して動けなくなっている同僚の姿を、私は何度も目にしていた。萎縮させている側の人々にはそんな意識は全くなく、「鍛えている」くらいの気持ちだったと思う。

 同僚がそういう目に遭っているとき、私はかばうことをせず、止めることもしなかった。自分の身を守るため、同僚を陰で励ますだけで、精いっぱいだった。
 
 私は弱かった。動けなかった私も、加害者だ。
 
 復職してからは心を殺して働いた。そこにいると、感覚がまひしていき、何が正しいか分からなくなった。

 一方、私が離れた編集職場で、生き生きと記事を書く女性の記者たちを見ると、苦しくなった。
結局、女性の記者だからではなく「私だから」だめだったんじゃないだろうか、と。私はうまくやれなかったけれど、みんなは認められて「次」へ行っているんだなと、ひがむような気持ちにさえなった。

 なんて心の狭い人間だろうかと思う。

私の「加害性」を忘れない

  休職する前から、私は自分が自分ではなくなったと感じていた。子どものころから能天気で、楽天的な人間だと思っていた。そういう自分に戻りたい、と思った。恨みや汚い感情を忘れて、大切なことを見つめなおして働いていきたいと思った。

 だから、いま悩みながら「ひとりメディア」の立ち上げを模索し、ここ生活ニュース・コモンズの仲間と連帯できたことは、自分なりの回復なのだと信じている。

 かつての自分と同じように、苦しんでいる記者がいるかもしれない。その人のために、私にできることはあるのだろうか。あの日、声を上げなかった私に。

 私の罪は消えない。私は弱い記者だった。そのことを忘れないために、きょうも原稿を書いている。            

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