今年のノーベル平和賞に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が決まったことを受けて、12月10日にノルウェーのオスロで開かれる授賞式に出席する日本被団協事務局次長の浜住治郎さん(78)の講演会が11月30日、東京YWCAカフマンホール(東京都千代田区)であった。「核廃絶という人類の課題に向けた取り組みは道半ばだが、若い人たちと共に考える機運が受賞をきっかけに広がってほしい」と浜住さん。講演後、若手の立場から核廃絶に向けた政策提言を進める一般社団法人かたわらの高橋悠太代表理事(24)と対談し、日本被団協の取り組みを次代に生かす道筋を探った。
ノーベル平和賞 被爆者が「隠され、無視された」歴史を直視
浜住さんは、ノーベル賞委員会が授賞理由で「広島と長崎の地獄を生き延びた人々の運命は長きにわたり隠され、無視されてきた」と言及したことに触れ、「日本被団協が1956年に結成されるまでの約10年間、日本や米国によって隠されてきた被爆者がいることを正確に理解してもらい、とても意味の大きい表現だ」と評価。授賞理由を述べたノーベル賞委員会のフリードネス委員長は39歳で、歴代最年少とされる。浜住さんは「これまで広島や長崎を直接訪問したことがなくても、被爆者の記憶を大切に受け止めてくれたことがとても嬉しい」と話し、「新しい世代が核廃絶に向けて行動を始めていることを知ってほしい」と来場者約50人に呼び掛けた。
講演では、浜住さんが日本被団協の活動や「ヒバクシャ」という言葉が世界に広まった経過について説明。77年、長崎で開かれたNGOによる国際シンポジウムで、核の実相を伝えるために全国の被爆者を対象にした大規模な聞き取り調査が報告され、「ヒバクシャ」として国際社会に知られるようになった。「当初は証言できなかった多くの人が初めて自分の体験を語る機会を得られたことで、被害者としてだけでなく証言者として世界に認識された」と浜住さん。被爆者の医学的または生活上の実態を把握する動きが進む一方、80年には国の諮問機関が国家補償のあり方を巡って「戦争による『一般の犠牲』として、すべての国民がひとしく受忍しなければならない」との見解を示し、被爆者らの反発は強まったとした。
日本被団協は84年、補償に消極的な国の姿勢に対して原爆被害者に対する援護法の制定と核廃絶に向けた具体的な取り組みを求める「基本要求」を策定。基本要求は「原爆は、人間として死ぬことも、人間らしく生きることも許しません」と述べ、「人間として認めることのできない絶対悪の兵器」と断じた。浜住さんは「策定から40年を経たが、再び被爆者をつくらない道筋に向けて基本要求は今後も変わらない」とし、「被爆者らへの長年の調査に基づく先輩方の積み重ねが、原爆被害とは何かを伝える上で励みになっている」と語った。パレスチナ・ガザ地区でイスラエル軍による空爆が続いている現状に触れ、「子どもたちの夢がかなう世界であるには、平和でなくてはならない。目の前に大きな困難があっても、一人一人の力で世界はよりより方向へ形づくることができる」と訴えた。
記憶のない体験と向き合う「胎内被爆者」 若い世代と共に
浜住さんは、妊娠3ヶ月だった母親が被爆したことに伴う「胎内被爆者」。対談では、自身が50歳を過ぎて被爆体験の継承に取り組み始めた経過を振り返った。
浜住さんの父親は1945年8月6日、爆心地から約500㍍の職場で被爆したとみられ、母親は翌日から父を探すために市街地に入った。浜住さんは家族から「市街地は死体の臭いが強く、父を見つけることができないまま帰ってきた」と聞かされた。10年ほど前に兄が亡くなった折に、浜住さんが父親の骨つぼを開けたところ、ベルトのバックルやがま口の金具、鍵のみが遺品として納めてあったという。
一般社団法人かたわらの高橋さんから「自身の記憶がない被爆体験にどのように向き合ってきたのか」と尋ねられた浜住さんは、「家ではずっと父の遺影を見て育ったが、きょうだいと話せないまま思いがたまっていった。聞ける限り父の全てを聞いてみようと決めたのは、自分の年齢が父が亡くなった49歳を超えたことがきっかけだった」と明かした。
7人きょうだいで育った浜住さん。大学進学のために広島を離れた1965年ごろ、母親から被爆者手帳が母親から送られてきた。「母は口には出さなかったが、何かあった時のためにと送ってくれたのだと思う」。その後、家族の記憶を知ることに「時間がかかった」という。50歳を過ぎてから6人のきょうだいに45年8月6日直後の様子を教えてほしいと手紙で頼んだところ、返事が届いた。その内容から、広島市中心部から約4キロ離れた自宅は被害を免れたものの、親戚ら4家族30人ほどが身を寄せていたことが詳細に分かった。熱線によるひどい火傷や高熱や髪の毛が抜けるなどして苦しみながら亡くなった親族らの姿が伝わってきた。
浜住さんのような胎内被爆者として認定を受けた被爆者の中には、妊娠初期に受けた放射線の影響で小頭症などの障害を発症したり、がんなどの病気に長く苦しんだりしながら健康や生活に不安を抱えて生きる人もいる。浜住さんがそうした記憶や経験を語り始めたのは、2003年以降。小学校での被爆体験を伝える絵本の読み聞かせを通じながら「体験を話せる場や出会いが生まれてきた」と振り返る。
高橋さんから「被爆体験を受け継いでいくことにどのような意味を感じているか」と問われると、「自分の命は、胎内にいた3ヶ月で生きていたか死んでいたか分からない。原爆の不条理を伝えることで、子ども一人一人が生きることの尊さに気づいてもらうことを大切にしている」と語った。
全国組織である日本被団協では、被爆者の高齢化が進み、被爆2世が活動を引き継ぐ県もある。近年では、被爆当事者に限らず、核問題に関心を寄せる高校生や20代が活動を支える事例も珍しくない。高校時代から被爆者の証言を聞き取ってきた高橋さんは「被爆者が蓄積してきた証言があったからこそ、自分の世代がさまざまな形で被爆者と接点を持ち、活動の広がりや人のつながりを生んでいる」。浜住さんは、新型コロナ感染拡大の最中にオンラインを通じて小学生から大学生まで約50人に体験を語った機会について「顔を見ながら一人一人から質問を受ける体験は、これまでにあまりなかった」とし、「核について考える機会が点から線へ繋がり、新しい動きが生まれてくるかもしれない」と期待を寄せた。
日本被団協のノーベル平和賞授賞理由では、「いつか歴史の目撃者としての被爆者はわれわれの前からいなくなる。しかし、記憶を守る強い文化と継続的な関与により、日本の新たな世代は被爆者の経験とメッセージを引き継いでいる」と活動を評価した。浜住さんは「核兵器を決して使用させない今後の100年、200年を目指すために、一人一人が同じ思いでつながっていくことが大切」だと強調。高橋さんも「被爆者と市民が協働し、地域の足元から平和を形づくっていきたい」と応えていた。
浜住さんら日本被団協の関係者約30人は8日から4日間の日程でノルウェーのオスロを訪問する予定。10日のノーベル平和賞授賞式に出席する。
【共同通信(オスロ・2024年10月11日)「ノーベル平和賞授賞理由全文」より一部引用】