物語の主役は「コミュニケーション」 映画「みんな、おしゃべり!」が映す多言語共生の姿

記者名:
©2025 映画『みんな、 おしゃべり!』製作委員会

日本手話とクルド語。通じ合わない人たちの混戦がいつしか多幸感に包まれるラストに!

ろう者が使う日本手話(*1)と、国境なき民族クルド人のクルド語。どちらも、どの国においても第一言語になれないマイノリティ言語だ。その使い手、通訳者、そして両者をミックスして新たな言語を作ってしまう子ども、3者が入り交じった社会派コメディが誕生した。

商店街で電器店を営む古賀は、ろう者。聴者の妻に先立たれ、聴者の娘・夏海、ろう者の息子と暮らしている。夏海は浪人中で、一家の通訳の役割を果たしているが、鬱屈気味。古賀は光が宇宙に届くという触れ込みのハイパーライトを開発し、目玉商品として売り出し中だが泣かず飛ばず。家計はちょっと苦しい。

ある日、電器店に、ケバブ屋を開業しようとしているクルド人の男性ルファトが訪れる。その直前に来店した女の子が割った電球を、ルファトが割ったと誤解して詰め寄る古賀。日本手話とクルド語のまったくかみ合わないけんかの仲裁に、夏海と、ルファトの息子ヒワが駆り出されるが、「まずは謝れ、話はそれからだ」「こっちのセリフだ、ぶっとばすぞ」と逐語訳の応酬で最悪の事態を招いてしまう。

©2025 映画『みんな、 おしゃべり!』製作委員会

商店街は折しも「マイノリティを商店街に誘致して、多様性で町を活性化」というキャンペーンの真っ最中。そのPR動画を撮影する男性は、全く悪気がなく、ろう者を「聴覚障害者」といい、クルド人をトルコ人と表記してしまう。抗議の矛先はともにPR会社に向かうが、相変わらず両者の溝は埋まらない。

そんな中、クルド人が落とした買い物メモを基に、ろう学校で子どもたちが独自の文字を書き始める。人工内耳を入れた音声言語の子どもと、手話言語の子どもの間に生じていた対立が、その文字でふわっと溶けていく。だが、担任の教師にはふざけているようにしか見えず、古賀の息子を「首謀者」と批難する。騒動の拡大に嫌気が指して、夏海とヒワは逃亡。果たして、コミュニケーション不全の人たちの間に和解は訪れるのか?

河合健監督自身がろう者の家庭で聴者として育った「CODA(コーダ)」だという。経験を基にマイノリティに向けられるマイクロアグレッション(無意識の偏見や固定観念によって相手を傷つける言動や態度)を赤裸々に描き出している。残念ながらその一つ一つは前述のPR会社の対応のように「よくあること」で、「あっ、私もやっちゃってるかも」と観客に容赦なく刺さってくる。

さらには、一つのカテゴリーを一色で塗り込める「暴力」も見えてくる。たとえばクルド人にはさまざまな国籍、言語のバックグラウンドがあり、日本の在留資格を持って働く人もいる。それを「非正規滞在者」と一つの記号でくくることがどれほど愚かか。

劇中、街頭で「日本も難民の受け入れを」と訴える市井の人たちが描かれる。映画製作時からわずか1年で、これほどの排外主義的ヘイトが吹き荒れるとは、多くの人が予想していなかっただろう。でも、そんな今だからこそ、最も必要とされる映画だ。

*1……日本で使われている手話には、「日本手話」と「日本語対応手話」がある。「日本手話」は日本語とは異なる独自の文法を持つ言語で、ろう者のコミュニティで自然に発生したもの。一方、「日本語対応手話」は日本語の文法に沿って、日本語の単語を手話に置き換えて表現する方法。

監督・河合健/2025年/日本/141分
◇11月29日(土)より、ユーロスペース、シネマ・チュプキ・タバタほか全国順次公開

言語の本質って、何を言おうとしているのか相手を見つめること
———河合健監督インタビュー

隣に座っている人を意識する映画館の楽しみ

——映画のファーストショットが小学校の教室。人工内耳を入れた音声言語の子どもと、手話言語の子どものディスコミュニケーションが何の説明もなく展開されます。クルド語の会話の字幕もクルド語だけで、日本語は出ません。斬新ですね。

そもそも映画ってメッセージを伝えるものじゃないし、「教育の道具」ではない。観客にとっては「気づき」があるだけで、勉強は能動的に、別にやってほしいなと。いま映画の表現の幅が狭まってきているという懸念があるんですね。

ろう者にはわかる、聴者にはわかる、クルドの人にはわかる。そういう部分が混在していることで、自分じゃない他者がその映画をどれだけ受け取れるかというところに「差」がある。そこが大事で、そこに他者の可能性がある。自分にはわからないものがあるということで十分なのではないかと。

よく、映画館では一つのスクリーンをみんなで共有するというけれど、それぞれで違う情報を受け取れる映画があってもいいんじゃないかと思ったんですね。多言語の映画で、観客にはおのおの分からない部分がある。みんながわからない瞬間もある。全員がわかる瞬間もある。そうやって隣にいる人を意識することで映画がより面白くなるんだったら、配信やテレビと一線を画せる映画館ならではの表現になるんじゃないかと考えました。

河合健監督=東京都渋谷区

——なるほど!

新しいことなのか、それとも映画館の持っている原始的な楽しみなのか。どちらでもある気がするんですね。それを自分なりに改めて考えたいというのが出発であり、ゴールでした。この先何をするにしても一回、「映画館」と向き合った作品を作っておきたかったんです。

ろう者・CODAとクルド人の共通点

——ろう者にフォーカスしたのは監督自身がCODAだったからですか。

映画を作り始める時って、半径1mから始まりますよね。ろう者が親にいて自分がCODAであることは大きかったです。ただそうはいっても自分自身にそこまで興味がないというか。そもそも当事者としての自分を客観視することが難しかったのもあります。それが、言語をテーマにするということで軸が見えてきて、映画にできそうだと思いました。

——監督自身、今までのCODAを扱った映画に不満があったのですか?

たとえば、これまでの映画だと、「ろう者=社会から孤立した人」という描かれ方をするんですね。でも実際のろう者はおしゃべりですし、友達もいて、みんなで冗談を言い合っている。当たり前のコミュニティがあるのにそれにはなかなか触れられない。孤立を描くことで観客の切なさが喚起されるわけですが、それはしたくなかった。

©2025 映画『みんな、 おしゃべり!』製作委員会

——もう一つの主人公に「クルド人」を据えたのはなぜですか?

ろう者やCODAを取り巻く状況って聞こえる・聞こえないという障害よりも言語の壁が圧倒的に大きいんです。家の内と外で言葉が違う。この状況、何が似ているんだろうと考えた時に、外国人移住者の2世と悩みが近いなと思った。

次に、その外国人の言語は、日本手話と共通項のある言語にしたいと考えました。世界中のどの国でも第一言語になれない言葉、禁止されていた歴史を持つ言葉……日本手話の歴史や特徴を挙げて行った時に、ちょうどそこに当てはまる言葉が「クルド語」だった。

——クルド人のキャスティングはどうやって?

日本クルド文化協会のワッカス・チョーラク事務局長に表現監修についてもらいました。ワッカスさんは言語学者なので、クルド語の描き方を補足してもらいながら、ビザを持っていてお芝居をやってみたい人をつないでもらった。結果、当て書きに近い人たちが出てきました。

——シリアから来たおばあちゃんはクルド人だけどアラビア語しかわからない。「クルド語を強制するな」というセリフに、クルド人の中での言語の重層性が描かれていて、目からウロコでした。

最初は全員トルコから来たクルド人の設定だったんだけど、実際にキャストの方にシリアから来たクルドの人がいて、アラビア語とクルド語と、ちょっとの英語しか話せないという人がいたので、その設定をいただきました。

©2025 映画『みんな、 おしゃべり!』製作委員会

分からない部分があることが大事

——この映画の主役は「コミュニケーション」なのかなと感じました。子どもたちが言語を発明する場面をみながら、小学生の時に自分たちにしか通じない暗号を作ったり、エスペラント語に憧れたりしたことを思いだしました。共通言語を探そうというのは人間の根源的な欲求なのかなということに気づかせてくれる。コミュニケーションの原初の形を見せてもらいました。

脚本は「言語」をテーマにしている。じゃあ「言語」って何? 子どもが暗号を使うのもそう。夏海は要約(意訳)する。でもヒワはしない。色々な方向から言語について自問自答をしながら作っていきました。

言語の本質って言葉を理解する前に相手が何を伝えようとしているのかを見つめることだと思うんです。それは映画館で映画を見る行為と近い。僕としては「見つめる」映画を意識して作った。

気を付けたポイントとしては、僕は日本手話をあいさつ程度には使えない、クルド語もわからない。自分が分からない部分があるということを受け入れて、出演者の提案をどんどん取り入れていこうというスタンスで臨みました。

手話の「こんにちは」は両手の人差し指を向かい合わせに立てて曲げる動作ですけど、ろう者同士は「おっ」と片手を上げて終わりだったりもする。でも、手を上げる位置とか、そのときの表情は、もう何が正解かわかんない世界なんですね。役者がこだわっているものがあり、それが表現であるとわかっていれば、彼らの要望に合わせてリテイクを重ねました。結局、違いがあることを受け入れることが大事なんだなと思い知ることが多かったです。

——この夏以降の排外主義的な状況についてどんな思いがありますか?

世の中どんどん分断に進んでいると思うんです。わからないものを受け入れるスタンスがないと排除する動きになってしまう。本当は理解できないということは、他者に対して無限の可能性があるということ。

本作でいえば、人工内耳をつけた子どもたちが出てきたり、劇中でもセリフで少し触れていますが、おそらく聴者の方にはわからないと思うんです。でも、ろう者の人はわかります。反対に、聴者には映画音楽がありますよね。互いに分からない部分がある。それでいいじゃないかと思っています。

多数の人にとって置き換え可能な、最大公約数を表現のゴールに設定してしまうと、その先に広がっていることへの想像力が失われてしまう。自分の主観でわかったつもりになるという風潮が、わからないものを忌避し、クルド人を排除する動きにも繋がっているのかな、と感じます。最初に話したように、人によって受け取れる情報には差があるということが大事。分かる部分だけ分かればいいという人にこそ、この映画が届いてほしいなと思います。